<#015-24>S氏3回目面接~解説編(5) 

 

<抜粋> 

 (25)T:では、その日は妻の帰宅時間が早いので、Sさんが帰宅して妻が出てこなかったとしても、Sさんとしては妻が自室で仕事をしてるだろうなと予測できていたということなんですね。 

 (26)S:ええ、その日の朝の時点でそうなってるだろうなと予期していました。でも、これって、そんなに大事なことなんですか。 

 (27)T:はい、大事なんです。ものすごく大事なんです。 

 (28)S:(笑って)本当ですか。 

 (29)T:本当です。どの人もそうなんですが、問題が起きた場面は詳しく教えてくれるのに、その人がどういう状態であったか、つまり心の状態という意味なんですけど、そこまで教えてくれないんですね。問題が発生した時、Sさんがどういう心的状態であったかを明確にしておきたいと思うんです。 

 (30)S:なるほど、そういう意味なんですね。僕が帰宅して、妻が自室にこもっていても、僕にはそれが分かっていましたので、特に何とも思わなかったですね。ああ、部屋で仕事をしているんだな、くらいにしか思わなかったです。 

  

<解説> 

 面接のこの抜粋部分では、問題発生時に先立つS氏の心的状態を確認していることになります。すでに述べたところと重複するので簡潔に済ませようと思います。 

 S氏からすれば、その日妻の帰宅が早いということが分かっており、きっと妻はいつもしているように自室で仕事をしていることだろうなと予測できていました。そして、彼が帰宅した時には彼の予測していた通りの状況であったということになります。彼にとって、予想外のことが起きていないわけであり、彼の心を乱すような不測の出来事も起きていないわけであります。彼にはこの状況があらかじめ予測できており、いわば心の準備ができていたわけであり、彼が居間でくつろいでいたというのは本当であるように思われるのであります。 

 (26)でS氏は「これって、そんなに大事なことなんですか」と問うています。クライアントは大抵の場合、こういうことをおっしゃるのであります。こういう発言に関しては後に取り上げることにしましょう。 

 (27)と(29)で私はその問いに応じています。私はなぜその情報が大事なのかをS氏に伝えています。でも、こんなふうに応じることができない場面もけっこうあるのです。つまり、私の方でも何が大事で何がそうでないかが分からないという場面であります。その場合、すべてを大事と思う必要があると私は考えています。つまり、何が大事であるか分からないというのは、これはつまりクライアントの話とか問題に関して、その輪郭がつかめていないとか見えていない部分が多いとかいう状態であるわけなのです。それらが明確になるまでは私自身何が大事であるか分からないのであり、分からないうちはすべてを大事と思って取り上げることになるということであります。言い換えると、何が大事かわからないうちはいかなる取捨選択も控えなければならないということであります。 

 

 クライアントの方はそいう取捨選択をするものであります。彼は彼にとって大事と思っているものを話し、大事だと思わない事柄に関しては話さないものであります。後者の方にむしろ大事な何かが含まれていることもあるのです。 

 フロイトはその精神分析療法で、心に浮かぶものはなんでも話すことをクライアントに求めています。これは大したことではないからとか、大事ではないからとか、そういう理由で勝手に取捨選択することを禁じているのであります。そこにクライアントの抵抗が働くからであり、フロイトはそれを反治療的とみなしているわけであります。 

 もし、クライアントがこれは大事なことではないからとか、取るに足らないことだからといって話を省いたとしても、私はそのすべてが抵抗であるとは思いません。クライアントがそのような取捨選択をするのは、その人の有している「理論」に基づくと私は考えています。 

 クライアントはどの人もその人なりの論理を持っているのであります。その人なりの考え方があるわけであり、理論体系があるのです。その理論の枠組みから外れるとみなされるものは切り捨てられることになるわけです。もしくは、それらはこの問題とは関係ないことであり、大したことではないなどと過小評価されることになります。 

 こうして切り捨てられたり過小評価されたりした事柄は、その時には話されることがなく、だいぶん後になって語られることもあるのです。それは、クライアントの視野が広がったり、図地反転といいますか、今まで光が当たっていなかった部分に光が当たるようになったりするためであります。そして、しばしばこのような経過を経てクライアントの思考様式が変わってくるものであると私は考えています。 

 

 以上を踏まえてS氏に戻りましょう。 

 S氏は(彼だけに限らず)、問題発生場面を取り上げ、それ以前のものは切り捨てていました。言い換えると、問題発生場面が大事であって、そこにいたる経緯であるとか、その場面以前の彼の状態であるとか、それらは過小評価されていることになります。 

 クライアントは自分が「問題」と感じている何かがあり、それを「問題」とみなしているものであります。そして、その「問題」に関して自分なりの見解を持っているのであります。これらの文脈から外れるものは過小評価され、切り捨てられることになってしまうのでありますが、こうしてクライアントは自分の枠組みに適合するものしか話さなくなるのであります。従って、クライアントの話す事柄から、その人が問題をどのように考えているか、どのような見解を持っているかということも憶測できることになります。 

 S氏は問題発生場面を妻がドアを蹴って入ってきたというところから始めたのでした。どうしてそこから始めたのでしょう。それ以前のくつろいで過ごしていた場面はどうして切り捨てられたのでしょう。一つの仮説として、ドアを蹴るというような妻の行為が彼にとって問題なのであり、妻が彼の平穏を乱したということは彼にとっては「問題」とみなされていなかったということであります。 

 もちろん、一回の問題場面だけでは分からないものであります。でも、繰り返しそのような傾向が認められるとすれば、彼の認識は次のようになるかもしれません。「妻の行為が問題であって、私のことはどうでもいい又は二の次なのです」と。そのように仮定すると、どうしても妻の行為が彼の意識の大部分を占めてしまうようになるのかもしれません。つまり、妻の特定の行為が彼の意識に侵入してきて、それが強制的に彼の意識を占め、彼はそれに対してどうにも対処できないし、自分自身に関することにまで意識が行き届かないということであります。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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