<#015-5>初回面接~解説編(2)
S氏の初回面接の考察を続けます。
(37)T:そんなふうに見られるのも不快なことですね。
(38)S:そう感じる時もある・・・ここへ来ることについても、揉めてしまって。
(39)T:どういうことでしょうか。
(40)S:(要約:暴力を振るうS氏には治療が必要だということで、妻と義母が決定したらしい。二人は治療機関や相談機関を探してはS氏に見せるのです。最初はS氏は拒否していたのだけど、治療を受けないと離婚するまで言われたので、受けることにした。ただ、どこを受けるかについては意見が対立したままだった。妻と義母はDV専門のカウンセラーがいいと主張したが、S氏はどういうわけか私のところを推したのでした。二人は高槻のあのカウンセラーは止めてほしいと頼むのだけれど、S氏は押し通したようで、彼女たちが彼に文書を持たせたのもそうした背景があってのことであるようだ)
(解説)妻の求めている関係性をS氏は与えることができない。それで妻は彼を役に立たないと思っているようである。そんなふうに思われるのも不快だと私は述べています(37)。こういう応答は誘導的に聞こえるかもしれません。DVのような問題は(と言っても、この時点ではS氏の問題が本当にDVなのかどうかは分かっていないのですが)、その関係において不快なことをお互いに体験しているものであります。ただ、DVに目を奪われてその不快さをあまり認識できていない例が多いように思うので、注意を促しているのであります。
これに対し、S氏は否定をしないのであります。不快に感じる時もあると、幾分中立的な言い方をしています。私の受ける印象は不快さとか、否定的な感情を彼はかなり抑制しているというものであります。彼は抑制的であります。ここは一つ大切なところであります。
ところで、不快さに意識を向けたことによって、彼は不快な体験を思い出したようであります。私のカウンセリングを受けることに関して彼は妻と義母たちと揉めたそであります(38)。
妻と義母はS氏に治療が必要だと考えていたようです。彼は自分ではその必要を感じていないようです。しかし、治療しなければ離婚するとまでいわれて、渋々、治療は同意したようです。恐らく、彼が表現するよりもかなり激しく問い詰められたのではないかと私は想像しています。治療や相談には同意したけれど、どこを受けるかに関しては、彼は我意を通したのでした。正直に言えば、私はS氏がよくやったなと思いました。ただし、妻・義母もそのまま引き下がらず、彼に文書を持たせるという作戦に出たわけです。おそらくだけれど、直前にそう決まったのだと私は考えています。前々からS氏に分かっていたことなら、このカウンセリングの最初の重苦しい感じは生まれなかったでしょうし、彼はこれほど苦悩しなかっただろう(つまり、それに対して対処なり準備なりをする時間があっただろう)と思うからです。
(41)T:Sさんは私の何が気に入ってそこまで推してくれたのでしょうか。
(42)S:(要約:ホームページに書いてあることが良かったと言う。DVに関しても、被害者と加害者を分け隔てなく考えているという印象を持ったそうで、そこで好感が持てるような気がしたそうであります)だから、さっき、被害者が暴力をふるうことだってあるって言ったとき、あのホームページを書いている先生だと思いました。
(43)T:そうだったんですね。でも、妻と義母には私の評判は悪いみたいですね。
(44)S:先生には申し訳ないけれど(T:いえいえ)。なんか、怖い先生だと思っているようです。
(解説)私はS氏がそこまで私を推してくれたことを嬉しく思うので、何が良かったのかを尋ねたくなりました(41)。彼の問題とか、彼のカウンセリングに直接関係はないけれど、カウンセラーに対しての印象などを語る機会を与えてあげるとクライアントの信頼度がより増すと私は思うのです。
彼はHPに書いてあることが良かったと言います(42)。しかし、これは妻と義母との考えとはかけ離れているから良かったという意味であると私は思うのです。彼女たちと同じような考え方をしていないのが良かったということなのだと思うのです。
そして、彼はあのHPを書いた人と会っているという体験をしているのです。こういう体験はクライアントに安心感をもたらすものであり、また、信頼関係を強化することにもつながるものです。私はいいことだと思いました。
一方で、妻と義母には私は評判が悪いのです。彼が言うには、私は怖い先生であるように彼女たちには映っているようであります(44)。私は賭けてもいいのですが、私のHPを見て私を怖いと感じる人はまず「精神病的」な人たちであります。そういう人たちが畏怖を感じるようなHPにわざと仕立てているのです。妻と義母がどういう人であるか、これだけでも想像がつくのであります。
(45)T:でしょうね(S氏、笑う)。逆に聞きたいんですけど、妻と義母が勧めるようなところは何がイヤだと思ったのでしょうか?
(46)S:なんていうのか、DVを専門に扱っているようなところのHPなんかを見てると、加害者が悪いと言われている気がして。(46)
(47)T:暴力を振るった側だけが悪者のように見られるのには耐えられないという感じでしょうか。
(48)S:そうですね・・・こんなことばかり話していていいのかな。
(解説)私のところを良く思ってくれたのはけっこうなのですが、妻たちが勧めるところは何が良くなかったのでしょう。彼が言うには、DVを専門に扱っている所は加害者を非難しているような気がするようです。ここは一つ重要なところでして、そういう非難は妻・義母がしているものではないかと私は思うのです。つまり、妻と義母からさんざんそれをされてきているのに、どうして新たにその体験をしに行かなければならないのだ、ということであります。
その後で、彼は「こんなことばかり話していいのかな」と述べています(48)。この言葉をどう理解するかは難しい気がしています。一つは、彼は妻・義母に反したことを話してきました。恐怖感か罪悪感か、それらの感情から、こういう話をしていていいのだろうか、といわば怖くなったという理解であります。この場合、彼が自分の話したいことを自由に話せば、それは妻と義母に反しているということになるのであります。
もう一つは重要なことを話していないという自覚であります。本当に大切なことを話しておらず、周辺的なことばかり話しているのではないか、こういう話しばかりしていていいのか、本当に話すべきことを話していないのではないか、ということであります。
そのどちらであるか、またはその両方であるか、あるいは他の何かによるものか、などは現時点ではなんとも言えないのであります。
(49)T:ええ、この時間はSさんのご自由に。
(50)S:妻も義母も今日僕がカウンセリングを受けるのを知っていて、最初は付き添うとまで言ってたんですよ。でも、仕事帰りに直接寄るからと言って断った。きっと、帰宅したらいろいろ訊かれると思う。どうしたらいいのか。
(51)T:Sさんは二人に話したいと思っているのか、話したくないと思っているのか、どちらなんでしょうか。
(52)S:あんまり、話したくはない。
(53)T:それなら話さなくていいですよ。
(54)S:妻と義母がそれでは納得しないだろうと思う。
(解説)こんなことばかり話していいのか、という彼の言葉をどう理解していいか分からず、私は無難なことを言って判断を保留しています(49)。この時間はSさんのものなのでSさんが自由に使ってよいということを述べているのです。
しかし、彼から出てくるのは妻と義母の話です。彼女たちはこのカウンセリングに付き添うとまで言っていたそうです。彼はそれを断ったのだけれど、帰宅したらいろいろ訊かれるのではないかと恐れ始めています。こういう恐れが生まれるのは、彼が妻・義母たちから心的に距離を取り始めているからであると思われます。彼女たちに合わせていれば体験しない感情であります。従って、彼は彼女たちからの分離を話してきたことで、その分離をここで改めて体験しているように私には思われるのであります。
次に私はかなり単刀直入に問いかけています。彼は妻たちにカウンセリングのことを話したいのかそうではないのか、とかなり直接的に問いかけます(51)。これを、「Sさんはどうしたいですか」などと自由度の高い問いかけをしたらどうでしょうか、彼は答えるでしょうけれど、彼の心的負荷はかなり高くなるかもしれません。つまり、ただでさえS氏にとってストレスの高い話題になっているところで、自由度の高い問いかけをするとS氏の心的な負担が大きくなるだろうということであります。
彼はあまり話したくないと言います。それなら話さなくてもいいのです。ただ、それでは妻・義母が納得しないというわけです。
(55)T:納得しなかったらどうなると言うんです?
(56)S:きっと他のところへ行かされると思う。
(57)T:また反発すればいいじゃありませんか。
(58)S:それができないんですよ。
(59)T:私のところを推したのと同じようになさればいいでしょう。
(60)S:いや、次はムリな気がする。今回は向こうが折れてくれたんだけれど、今度は折れないと思う。
(解説)話したくないから話さないは、妻たちには通用しないようで、そういう応答では妻たちは納得しないと言います。彼女たちが納得しなかったら何が起きるのでしょう。彼は治療を受けさせられると考えています。実際、それはあり得ることです。そうなっても今回のように我意を通して反対すればいいでしょうと私は述べています。
彼はそれはできないと言います。今回は向こうが折れてくれたけれど、今度は折れないと思うという彼の発言は、きっとそういうことがこれまでに現実にあったことを思わせるものであります。
(61)T:そうですか。しかし、あの二人があなたのことで納得なんてするのかなあ。Sさんがどんな選択をしても、Sさんが選択する限り納得はされんでしょうなあ。
(62)S:僕もそんな気がしています。
(63)T:ところで、妻と義母からどんなことを言われるのが一番イヤなんでしょうか。Sさんがもっとも避けたいことは何でしょうか。
(64)S:(考える様子)・・・先生、僕って人格障害ですか。
(65)T:(驚いて)そうは思いません。
(66)S:妻と義母は僕が人格障害だと思っていて、そういう治療が必要だとも考えているのです。カウンセリングはまだいいけど、病院に通うのはどうも・・・
(解説)私の(61)の発言はかなり私の私見が入っています。カウンセリングでのことを話さなければ彼女たちは納得しないでしょうし、それと同じくらい、彼が何を話しても彼女たちが納得しないだろうと私は思っています。そもそも、私のカウンセリングそのものが彼女たちには納得できないものであるだけに、尚更そうだろうと思うわけです。
さて、私は彼が妻と義母との場面で一番回避したいことを訪ねています。言い換えると、彼にとってもっとも起きてほしくないことは何かということであります。しかし、彼はその問いに間接的に答えるのです。
まず、彼はいきなり自分は人格障害なのかと問うてきます。ここで人格障害なる言葉が出てきたことに私の方が驚いているくらいであります。私は彼が「人格障害」であるとは思っていません。いくつかの根拠を上げると、まず、彼は不快なストレスに対しての耐性が十分にあるように見受けられること。HPの文章と私の発言とが関連して、あの文章を書いた人が私であるという、他者に一貫性を見ることができること(これは対象恒常性が求められると思う)。その他、彼が本当に人格障害であれば、このカウンセリングは実現しなかっただろうと思われます。と言うのは、人格障害はカウンセリングを受けたがらない(代わりに行動化する)ことが多いからであります。
しかし、妻・義母は彼が人格障害であるとみなしているのです。これはスプリッティングであると私は考えました。つまり、彼がそういうことをするのは、彼が人格障害であるからであり、彼の方が人格障害の問題を抱えているのであるから、自分たちには問題はないという立場を保てることになるのです。悪は彼の方であり、善は自分たちであると、明確に両者が分割できるのです。これによって自分たちには免罪符が与えられ、また、彼に対して何をしてもいい権限が付与されることになるのです。自分たちは正しいのであるから悪い彼に何をしてもいい、という思考が生まれるわけであります。
もちろん、今述べたことは、少なくとも現時点では、憶測の域を出ないものでありますが、もし、今後、それに関するエピソードが繰り返し語られるとすれば、この憶測はかなり信頼できるものになるのです。
彼は人格障害で病院に通うのは嫌だと言っている(言葉を濁しているのだけれど)のですが、これはむしろ、人格障害というレッテル貼りに対しての反感ではないかという気がしてきます。
さて、分量の関係で中途ではありますが、ここで項を改めたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)