<#014-03>依存症問題に寄せて(3)
依存症問題の下位概念として①依存対象、②依存行為、③副次的行為、④変身という4点を想定しています。その各々について少し詳しく見ているところであり、前項では①と②を取り上げました。まだ述べ足りないところもあるのですが、ひとまず先へ進みたいと思います。
③副次的行為というのは、依存行為そのものではないけれど、それに付随して生じる諸行為を指しています。
クライアントの中にはこの副次的行為の方を主訴として来談される人もあります。本当はパチンコ依存なのだけれど、借金が止められないといった相談をされるわけであります。
しかし、依存症者の周囲の人たちはこの副次的行為に該当する諸行為をもっとも問題視していることが多いという印象を私は受けています。周囲の人たちにとっては、その人の依存行為よりも、副次的行為に困らされていたりするわけであります。パチンコはしてもいいけど、借金をしないでほしいとか、お酒は飲んでもいいけれど荒れないでほしいとか、そういった訴えをされる人が多いのであります。
いずれにしても、この副次的行為が周囲にとってひどく迷惑になっていることが多いのであります。こういってよければ、依存行為は当人が苦しむ(とも限っていないのですが)のに対し、副次的行為は周囲の人が苦しむと言えるかと思います。
もし、副次的行為がまったくないという依存症者がいるとすれば、きわめて無害な依存者ということになるでしょう。しかしながら、私はそのような人を見たことがありません。迷惑をこうむっている周囲の人が10人や20人程度なら、かなり善良な依存症者だと私は捉えています。一人の依存症者の副次的行為によって迷惑をこうむる人は100人や200人を下らないものであると私は考えています。
アルコール依存になるとその数はもっと多くなると思います。店で暴れたら店員や他の客に、電車の中で嘔吐でもすれば駅員さんをはじめ、少なくともその車両の乗客全員に迷惑をかけていることになるわけです。当然、家族、親族、(現在に限らず過去の)友人知人もみななんらかの迷惑をこうむっていることでしょう。
副次的行為は換言すると「問題行動」であります。より正確に言えば、副次的行為のうち問題となる行為が問題になるのであります。問題にならない副次的行為は等閑に付されていることが多いのであります。それが問題行動であるので周囲が困ることになるわけであります。
しばしば依存症者は、依存行為そのもので失敗するよりも、副次的行為によって人生を棒に振ってしまうのであります。パチンコで失敗するのではなく、パチンコの軍資金のための横領や窃盗で人生を棒に振る、あるいは破産する、などであります。従って、依存行為よりもこの副次的行為の方が質が悪い例が多いのであります。
依存症というのはひどく曖昧であります。何をもって依存症と認定していいのか、その基準も明確ではないのであります。依存行為の頻度や程度、それに費やす金額の多寡などを基準にして依存症を規定することも可能ではあります。私は、個人的には、そうした診断基準は当てにならないと考えています。お酒を飲まないアルコール依存症者もいる(と私は考えている)ので、依存行為の有無やその程度だけでは依存症は概念化できないと考えているのです。
ただ、副次的行為に関しては、問題行為がハッキリと見えるのであります。それが問題行為であるということを当人も意識しているのであります。副次的行為の方を主訴にして来談されるクライアントもおられると上に述べましたが、これがその理由になるわけであります。自分のパチンコには問題が無いとか、自分はパチンコ依存ではないとか、そのように当人が信じていても、多額の借金があるといった問題は可視化されるので当人も問題意識を持つわけであります。ただ、こういうクライアントは借金の理由を正直に言わないこともありまして、大分後になってから、実はパチンコに費やしていたなどと打ち明けたりすることもあります。
繰り返しになりますが、当人が依存症を否定しようとも、副次的行為に関しては否定しようがないので、当人もそれを問題視することがあり、また、それが治療の契機となることもあるわけであります。
④の「変身」について、私はこれが依存症問題の本質であると考えています。私たちは「変身願望」というものを有しているかもしれません。自分がもっとこうであったらいいのになと思う時も人にはあると私は思うのですが、これは変身願望の表れと言えそうであります。時には、変身後のふるまいを現実にしてしまうといったこともあるとは思いますが、基本的に、変身願望は空想の中で処理されるものであると私は思うのです。
もし、依存症が変身願望の一つの形態であるとすれば、変身願望の媒体として依存対象があるということになります。つまり、その人は空想だけで変身願望を満たすことができず、パチンコ(依存対象)を介してでなければそれができないという意味であります。従って、こういう人は空想力が弱いと言えるのかもしれません。
実際、幾人かのパチンコ依存者からはそのような印象を私は受けるのであります。こういうことをするとどうなるのか、このような状態にになったら自身や家族がどうなるのか、それらを想像することが困難であるような人もおられたのです。空想力や想像力が弱いためなのか、「もし〇〇ならば、××になる」といった思考様式があまり見られないという印象を私は受けるのであります。
将来を仮定してみるに必要な想像力が弱いので、それだけ衝動に身を任せることになりやすいのかもしれません。つまり、「これをすると将来こんな風に困ることになる」といった想像が衝動を抑止する力ともなり得るのですが、そのような想像が弱いので衝動抑止力が働かないというわけであります。
衝動に身を任せて、依存行為をすることになり、依存行為をして不満な結果になって自棄を起こしたりする人もありますが、その結果は十分に予測できたものである場合もけっこうあるだろうと私は考えています。パチンコをして、「また負けた」などと憤慨する人もあるわけですが、これまでも「負け」が続いていて、滅多に「勝つ」ことがないとすれば、想像力を働かせれば(働かせなくても)、今日も負けるだろうという予測が成り立ちそうなものであります。
人には変身願望があると私は思うのですが、その変身は想像でなされるものであります。というのは、その「変身」は一朝一夕では実現できないことであるからです。いつかそれを実現することがあったとしても、当面は想像の世界でその願望は処理されることになるわけであります。想像力がある程度備わっていると、人は想像の世界でそれをするでしょう。想像力が弱い場合、それを処理するための媒介物が必要となるでしょう。依存症問題をそういう観点から眺めてみることもできるように私は思います。
さて、いくつか述べ足りないところもあるのですが、それらはいつか補足することとして、私たちは次のテーマに移行しようと思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)