#013-4>浮気問題はDV問題にできる 

 

 前々節で浮気問題をDV問題にすり替えたケースを紹介しましたが、私の考えでは浮気問題はDV問題に持ち込むことができるのです。 

 妻のある夫が愛人女性と浮気をしていたというシチュエーションを取り上げましょう。もちろん、妻と夫を入れ替えても同じことが言えるのでありますが、ここでは夫が浮気をしたという場面で考えていきます。 

 夫は妻に隠れて愛人女性と関係することでしょう。愛人の存在を妻にはひた隠しに隠すことでしょう。すでに述べたように妻と愛人とは同格ではないので、夫は愛人のことを妻には知られないように懸命になることでしょう。 

 こうして夫は二重生活を送るようになり、自己を分裂させていかなければならなくなるわけです。妻との生活場面、愛人との生活場面を完全に切り離さなければならなくなるわけです。これもすでに述べたように、こうした在り方は長期的には続けることができないものであります。 

 さて、この問題のどこがDVに該当するのかを考えてみましょう。 

 例えば、この夫は休日には夫婦で過ごすことにしていたとしましょう。それを、何かの口実を設けて外出し、愛人と過ごしたとしましょう。これのどこがDVに該当するかを考えてみましょう。 

 休日は夫婦で過ごすということは、この夫婦が取り決めていることであります。当然、強制というわけではなく、同意があれば一緒に過ごせない休日があっても構わないのであります。夫がどうしても休日出勤しなくてはならなくなり、妻もそれなら仕方がないと同意する場面であれば、夫は夫婦間の取り決めを破ったことにはならないわけであります。夫婦が双方で取り決め、双方がそれに同意する限り問題ではありません。 

 そういう取り決めをしている以上、妻には休日を夫とともに過ごす権利があることになります。先述のように、夫の事情のために妻がこの権利を断念することもあるでしょう。つまり、今回の休日は諦めると妻が認めるわけですが、それは妻の自由であります。 

 浮気問題では、妻が受け取る権利のあるものを、夫はそれを妻には与えず、愛人に与えてしまうという構図があるわけです。ここにDVの要素があると私は見做しております。妻が受け取る権利を夫が剥奪してしまっているわけであります。 

 

 浮気問題がDVにすり替えることができるその根拠は、妻の権利が愛人に渡されるというところに求められるわけです。妻の権利侵害があるわけです。それを夫が一方的にやるのですが、加えて、妻にはそのことを知らさずにそれをやるわけであります。 

 しかしながら、もう少し視野を広げてみましょう。 

 夫婦となって一緒に生活するということは、生活の苦楽を共にすることになります。夫にも妻にも苦しいことが課せられてきますし、それぞれに責任がかかってきます。夫は外に出て二人分稼がなければならなくなるわけであり、妻は家庭を維持しなければならないのであります。独身だったら自分の食い扶持だけ稼げばいいし、生活に支障のない程度に家を維持していれば良かったのですが、結婚すると独身時代のようにはいかないわけであります。人間関係も、自分一人の人間関係だけでなく、配偶者の人間関係もそこに入ってきます。人間関係の苦労も倍増するかもしれません。 

 それでも夫婦でいるということで得られる幸せもあるでしょう。独りで生活しているよりもより豊かな生活を送っていることでしょう。すべてを独りでやらなければならなかった生活に比べれば、今は二人で協力したり手分けしたりすることもできるので、余裕が生まれている部分だってあることでしょう。愛し合って一緒になったのであれば、愛し合うことの喜びだってあることでしょう。 

 夫婦になって、苦しいことも増えたけれど、喜びや幸せも増えたことでしょう。そうして苦楽を共に生きるわけであります。先ほどの「権利」という観点に、この「苦楽」という観点を持ち込んでみましょう。 

 そうするとこうなります。妻は夫婦生活の「苦楽」のうち、「苦」の部分はそのまま引き受けることになり、「楽」に関する部分を愛人に持っていかれるということになります。それを夫がするわけであります。 

 愛人女性は夫と一緒にすごすひとときを楽しみ、幸福に感じるかもしれませんが、それは本来妻に与えられるものであって、愛人に与えられるものではないのであります。妻が経験するものを、夫は愛人に与えていることになります。 

 確かに、DVといっても暴力とか暴言とかがあるわけではありません。しかし、上記のような観点に立つと、妻は自分が受け取ることのできる権利を夫によって一方的に剥奪されていることになるわけでありますので、私にはこれは夫の妻に対する暴力的行為に該当するように見えるのであります。 

 愛人は夫の共謀者になります。つまり、愛人はこの男性(夫)と一緒になったら経験するであろう「苦楽」のうち、「苦」に関する部分を彼の妻に押し付けていることになるのです。汚い言い方をすれば、恋愛の楽しみだけは自分たちで享受して、生活の苦しみは妻に押し付けていることになるわけです。従って、DVの観点に立てば、愛人も共犯になってしまうのであります。 

 

 さて、浮気問題はDV問題にいくらでもすり替えることができると私は考えていますが、その根拠は上記のとおりであります。夫は妻に与えるものを与えず、愛人に与えているというところにその根拠があり、しかも、夫は積極的にそれをやっていることになります。 

 これは私の個人的見解でありますので、賛成できないという人がおられて当然であります。浮気はDVには該当しないとお考えの人はそれで構いません。 

 次のようなことを言うへそ曲がりもあります。私のその理屈は分かると言い、しかし、喜びの半分は妻に与えていて、後の半分だけを愛人と共有しているという、だから妻からすべてを剥奪しているのではない、とそんな理屈を言う人もあります。私はこういう屁理屈に付き合うつもりはないのですが、これは軽くたたいただけだからDVではないという主張と大同小異であるように思います。 

 軽く叩いただけだからDVではないのではなく、その行為が発生しているというところに問題の本質があるわけであり、この場合でも同様に、愛人に半分でも与えているというその行為の発生が本当は問題になるところのものであります。 

 本項ではこれ以上話を広げないようにしましょう。前述の屁理屈をこねる人にはまた別の「問題点」があることが多いように個人的には思うのですが、ここではそれは取り上げないでおきましょう。機会があれば別箇所で取り上げたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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