<#11-11>キレる配偶者~行為と人格の水準(2)
(キレた理由はあてにならない)
人間の行動とか活動には階層があり、それは低次元のものから高次元のものへと至るのです。キレるという行動は次元としてはかなり低いものであると私は考えており、それを感情レベルの次元、反応レベルの次元、反射レベルの次元とに分けて考察しています。そして、反応や反射の次元では、感情よりも先にキレていると仮定しているのであります。
感情の次元のものはまだ了解可能なのですが、反応や反射の次元になると、もはや第三者には了解できないと私は考えております。キレた当人はキレた理由をあれこれ述べるかもしれませんが、そんなものは全くあてにならないと私は考えています。
ところで、人間というものは何とかして理由を述べるものであります。後催眠暗示研究がいい例であります。例えば、仮に、ある学生に催眠術をかけて、「2時になったら教室から出て、廊下の傘立てから自分の傘を持って教室に戻ってくる」という暗示を与えるのです。そうして催眠を解いた後、その学生は2時になると教室から出て、廊下の傘立てから自分の傘を取り、傘を持って教室に戻ってきます。これが後催眠現象というものであります。
その時、教授が「どうして君は教室から出て廊下から傘を持って入ってきたのだね」と質問するのです。その学生は「傘が取られていないか気になって」とか「傘を傘立てに立てていることを思い出して」とかなんとかかんとかその行為の理由を言うのであります。でも、これは真っ赤なウソで、教室にいる人は全員彼のその行動の理由を知っているのであります。そうするように催眠暗示をかけられていたから彼はそうしたのであります。知らぬは本人ばかりなのであります。
何が言いたいのかと言いますと、自分でも説明できない行為であっても、人は捏造してでもその行為の理由をつけるということであります。行為の理由をつけないと落ち着かないのであります。だから創作してでも理由をつけるのであります。
反射、反応レベルでキレるというのは、まず当人にも説明できないものであると私は思うのです。どうしてキレたのか本人も分からないのです。そして、分からないままにしておくのは不快なので、キレた理由を作り出すことがあり得るのではないかと私は思う次第であります。従って、こういう人の挙げる理由はあまり信用できないというのが私の本音であります。
そのため、キレた人が挙げる理由について考えること、あるいはそれについて話し合うとか議論することは不毛な作業であると私は考えています。本節でもそこは取り上げません。つまり、キレた人がなぜキレたのか、そんなテーマは取り上げないことにします。
(その理由の一部には事実があるかもしれない)
しかしながら、矛盾することを言うのですが、そういう創作の理由であっても一部は事実のものを含んでいるかもしれません。
先述の後催眠の例では、この学生が傘を取りに行ったということの理由は創作であるとしても、傘に意識を向けるように暗示されていたので、「傘が取られていないか気になって」とか「傘を立てていたことを思い出して」といった理由には正しい部分を含んでいるとも考えられるのであります。傘に意識を向けるという暗示の部分に関してのみ正しい理由を含んでいると考えることができるわけであります。
反射や反応レベルでキレた人の挙げる理由は、その多くが創作となってしまっているとしても、その「被害感」の部分には正しいものが含まれているかもしれないと私は思うのです。
彼らの挙げる理由には何らかの「被害」のニュアンスを含んでいることが多いのであります。「あいつが気に入らんことを言った(自分は言われた側だ、ということ)」とか、「お前がこれをするからだ(自分はされた側だ、ということ)」など、自分が被害を被ったという意味合いが含まれていることが多いように私は思うのであります。
この「被害」感は彼が実際に体験しているところのものを幾分かは含んでいると私は思うのです。ただし、それはこの人の言うような意味ではありません。彼が「被害」として体験していることは、「自動症」の部分にあると私は思うのです。
つまり、本人はキレたくてキレたのではなく、そうさせられたのだという意識があるのではないかと思うのです。加害者は、目の前の相手ではなく、自分の内なる何かであるわけです。それによって自分が動かされた、そうさせられたという感覚が被害感情につながっているのではないかと思うのであります。
(理由に含まれる被害感情)
感情レベルの場合では、その理由に主体の要素が見られることが多いと私は感じています。例えば、「もう(自分が)耐えられなかった」とか「(自分の)限界だった」といった理由を述べることが多いと思っています。また、キレる瞬間のことが特定されていることもあるように思います。例えば、「(相手の)あのひと言が致命的だった」とか「(相手に)あれだけはやってほしくなかった」などといった表現がなされる傾向もあるように思います。こうした表現は反省が働いているということも関係していると私は考えています。あくまでも私の個人的な印象でありますが。
反射、反応レベルでは、理由はひどく漠然としていたり、ひどく曖昧であったりして、上述のように「被害」のニュアンスがより含まれていると私は考えています。やはり、私の個人的な印象であることをお断りしておきます。
そして、これはさらに私の個人的印象度が強いのでありますが、反射、反応レベルでキレることの多い人は、平素から「被害感情」を持つことが多いという気がしています。事物を被害的に体験することが多いのではないかという印象を受ける人もおられるのであります。ある要求を出して、パートナーがまっとうな理由でそれを断ったとしても、それを被害的に解釈するなどということが見られるのであります。
従って、普段から被害感情を持ちやすい人が、キレた時の理由にもそれを持ち込んでしまっているのかもしれません。そこはもう分からないのであります。
(キレる理由は鵜呑みにしなくてよい)
さて、その人のキレるがどの次元に属するのか、その人の述べる理由から憶測することも可能であると私は思うのでありますが、確実なことは言えず、あくまでも私の印象の範囲内のことであることをお断りしておきます。
ただ、キレた人のキレたことの理由があまりに了解不能であったり、あまりに理不尽である場合、それは当人にも説明できないことを無理矢理説明づけようとする努力の表れである可能性があると私は思うのです。こう言ってよければ、それは自分(キレた側)を安心させるための理由であり、自分に言い聞かせる理由である可能性があると思うのであります。従って、パートナー(キレられる側)はその理由や説明を額面通りに受け取らなくていいのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)