<#009-5>AC者に至るまで(2)
人はどのようにしてAC信奉者になるのか、前項では苦しい状況から孤立に至るまでの経緯を述べました。この経緯はAC信奉者に特有というわけではなく、「心を病む」人の多くが経験することでもあります。ここからAC信奉者になるかどうかの分岐点があると私は考えています。
(AC理論との遭遇)
彼らは自分が上手くいかないことであれこれ検索して調べたりするのであります。なぜ上手くいかないのか、自分に何が欠けているのか、そういう思いからいろいろと調べたりされるのであります。その過程でAC理論と遭遇するのであります。
ちなみに、彼らの中で変化が生じた時期があるはずであると私は考えているのですが、検索して調べる事柄も変化の前と後とでは異なっているかもしれません。以前とは違った事柄を調べるようになっているかもしれません。
それはさておき、AC信奉者はどこかでAC理論と遭遇しているはずであります。いろいろ検索していく中で遭遇することもあれば、偶然的に遭遇することもあります。
例えば、ある女性はラジオ放送でたまたま遭遇したと言います。この人は夜中にラジオを聞くのが好きだったようで、いつものようにラジオ放送を聴いていたのでした。たまたま心理学者が番組のゲストに招かれていて、その心理学者がACのような説を述べたのでした。彼女は衝撃を受けたようであります。
(理論が「ピッタリあてはまる」)
AC信奉者は自分がAC理論と遭遇した時の場面をよく覚えていることが多いようであります。彼らはその時の体験を語るのです。
理論との遭遇の仕方はさまざまでありますが、理論がかなり強い影響をその人に与えているようであります。
一時期、自称AC者からその理論が「自分にピッタリあてはまる」という表現を頻繁に耳にしたものでした。これは私には異常な現象であると思われるのです。一つの理論が個人にピッタリあてはまるなんてことが起きるだろうか、と私は思うのです。というのは、人間に関するどのような理論であれ、理論は人間の一部を抽象しているはずであります。その一部分において当てはまるとか、思い当たるとかいう体験なら理解できないこともないのですが、全体的にピッタリ当てはまるということが本当にあるのでしょうか。
私はそこになんらかの「カラクリ」があるに違いないと思うのですが、彼らの言葉をそのまま信用しましょう。その理論はその人にピッタリあてはまるように体験されています。どういうことが起きているのかと言うと、私が思い浮かべるのは、その人は自分の心的投影物を読んでいるということであります。
ブログの方で「買い物しすぎる女たち」を評したことがあるのですが、AC理論にはどこか曖昧なところがあると私は思うのです。<#009-1>でも斎藤学の記述を取り上げましたが、親の期待という暴力で子供を苦しめてきた母親が述べられていながら、それがどういう期待であったのかは読み手の方で補っていかなければならないものでした。読み手はその「期待」の部分にどんなものを投影することが可能なのであります。自分が体験した類のものをそこに当てはめることもできるわけであります。
不明瞭な記述があると、そこに読み手が自己に属するものを持ち込むことになってしまうので、どうしても自分に当てはまる記述になってしまうのであります。鏡に自分を映しておいて、なんて自分にそっくりなんだと驚くようなものであります。
それが自分にピッタリ当てはまるというのは幻想なのであります。ただ、当人にはそれが真実のように体験されてしまうのであります。その理論に遭遇した時のその人の自我状態もそれに関係していると私は思うのです。現実感や現実自我が脆い状態にある時に遭遇している例もあるように私には思われるのであります。そして、AC信奉者においては、この「ピッタリあてはまる」は修正されることがないのであります。それが速やかに修正されるのであれば、その人はAC信奉者にはならなかったでしょう。
(集合的無意識の領域)
AC理論は家族を取り上げます。特に親という人を過大視するところがあると思います。こういう理論に遭遇すると、自分の家族、自分の親との経験を思い出す人もおられることでしょう。自分自身の何かが投影されやすくなるとも言えると思います。
ところで、ここで投影されるのはその人の個人的な体験なのでしょうか。AC者のすべてではないとしても、かなり深層のものが投影されることがあると私は考えています。
これに関しては私は別に項目を設けるつもりでおります。ここでは簡潔に述べるにとどめるのですが、深層の部分、ユングのいう集合的無意識の部分にその理論が影響するのであります。その深層の部分にあるものを理論が揺り動かすのであります。そして、その深層のものが一気に意識に上がってくるということが起きるのであります。
深層のものが一気に意識に上がるとどういうことになるのかということですが、端的に言えば、急性精神病様の発作をその人は示すのであります。それは理論遭遇時だけに限らず、以後もその状態のまま過ごされるのであります。つまり、深層のものが意識化されやすい状態のまま、言い換えればいつ急性精神病様発作が生じてもおかしくないといった状態のまま、保護も監督も治療も受けず、孤立したまま過ごす人もおられるのであります。私から見ると非常に危険な状態のまま放置されている(または放置している)AC者もおられるのであります。その人たちのこともいずれ述べたいと思います。
(理論との同化)
いずれにしても、私のお会いした限りでは、AC者はAC理論と遭遇した時の体験をよく覚えておられるのです。
それは決して穏やかな体験ではなかったようであります。理論を受け取った彼らは、動揺し、落ち着かなくなり、不安になり、焦燥感に駆られたり、さまざまな感情体験をされるようであります。それは畏怖のような感情であり、衝撃を受ける体験であったように私は察します。彼らはそれをどう処理してよいか分からなくなると私は思うのです。
その理論に反することは、彼らにはさらに恐ろしいことのように思われてしまうのかもしれません。「ピッタリあてはまる」というのは、それによってその感情を緩和する作用があるのかもしれません。
少し結論が飛躍するのでありますが、それが衝撃的であり恐ろしいものであるので、それに反するよりかは、それに同化する方を彼らは選んでいるのかもしれません。彼らは自らACになっていくのであると私は考えています。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)