<#009-4>AC者に至るまで(1)
ひと言でAC信奉者と言っても、そこにはさまざまな人が含まれています。置かれている状況も人それぞれであり、その人の状態、人格水準などもさまざまであります。それでも何人ものAC信奉者とお会いしていると共通していると思われるところもないわけではありません。
本項では人がAC信奉に至るまでの経緯を綴ることにします。彼らから窺った話を抽象して、私が思うところのものを述べることにします。
(苦しい状況の体験)
まず、彼らは苦しい状況に置かれていたことが確認できます。それは長年引きずっている状況であることもあれば、新たに生まれた状況であることもあります。彼らは苦しい状況において、非常にしんどい思いをされてきた経緯があるのであります。
その状況は人それぞれであるのですが、ごく大雑把にまとめると、彼らが直面しているのは何らかの不条理であったり、矛盾であったりするものであります。それらに対して対処できない状態に陥っているのであります。
この不条理な状況は彼らが予想していなかったものであることが多いようであります。予期し得なかったことだけに、対処することはおろか、その準備さえままならない状態でその状況に直面してしまうことが多いようであります。
例えば、部下にやさしい上司の冷たい一面を垣間見てしまうとか、入社して同僚と一緒に仕事ができると期待していたのに会社の事情で一人だけ別の仮事務所に派遣されてしまうとか、全然専門外の部署に異動させられてしまったとか、あるいは思っていたよりも周囲が馴染みにくい人たちばかりであったとか、そのような体験をされているのであります。彼らはこれらを不条理な状況として認識し、且つ、体験しているように私は思います。
(自分に違和感を抱く)
そのような状況に置かれて、彼らは苦悩するのであります。あれこれ思い悩むわけであります。そうして、この状況で上手くやることのできない自分を体験してしまうのでしょう。特に、他の人たちがその状況に上手く適応しているのに、自分だけができないという
思いにとらわれるようであります。
彼らは自分に違和感を覚えるようになるのだと私は思います。つまり「私の中に何かおかしいところがある」という思いを抱くようになるのだと思うのです。憶測の形で述べるのは、彼らはあまりその辺りの経緯を話さないからであります。苦しい状況があったことは語られても、その状況において彼らに何が生じたのかということは語られないのであります。だから、あくまでも私の推測の域を出ないということはご了承いただきたく思います。
(自己体験様式の変化)
次に彼らは何をするかと言いますと、自分の中にある「おかしな」ものに対して、それを克服しようと何らかの努力をされる人もおられるのであります。この状況に対してなんらかの対処なり適応の試みを繰り返すのであります。しかし、彼らの努力は報われない結果に終わるのであります。
そうしてますます上手くいかない自分を経験してしまうのであります。この状態を続けているうちに、彼らにある変化が生まれると私は考えています。
彼らは自分の問題ばかり意識して過ごすのであります。その一点だけに意識を集中し続けていると、その一点が意識の全体を占めてしまうことになります。カメラのピントを一点に絞ると、その一点が画面の全体を占めるようになるように、その一つのことが心の全体を占めてしまうようであります。つまり、自分の中にある「おかしな」部分が、自分の全体を占めてしまい、「自分がおかしい」という体験に発展してしまうようであります。
この体験様式の変化はご理解いただけるでしょうか。かつては「自分の中に異常な何かがある」という体験でした。正常な自分の中に異常な部分があるという様式であります。それが「自分が異常である」という自己体験をするようになるわけであります。異常なのは一部であったのが、全体がそうなってしまったといった体験になるわけであります。
彼らにそのような変化が生じたであろうというのは私の憶測でしかないかもしれません。しかしながら、彼らは苦しい状況を語り、その状況に対処しようとしてきたことも話します。その頃の彼と今現在の彼とが私の中で直結しないのであります。両者には乖離があり、どこか飛躍しているように思われてならないのであります。当時の状態から現在の状態の間に何らかの変化が彼に生じたと仮定しなければ辻褄が合わない感じがするのであります。
(孤立化)
では、自分の全体がおかしいという体験様式の変化はどこからそう憶測するのかと問われるかもしれません。一つ手がかりになるのは、彼らの人間関係並びに世界とのかかわり方の変化であります。共人間的な世界に彼らは生きなくなるように思われるのであります。親しい人でさえ彼らは敬遠するようになります。徹底的に彼らは孤立していくのであります。苦しい状況の中でさえ、彼らはここまで孤立してはいなかったのであります。それが、ある時期から、彼らは孤立していくのであります。中には積極的に自ら孤立していく人もおられるのであります。
彼らが孤立していくのは、彼らが自分を異質な存在と体験しているからではないかと私は思うのであります。自分と他者があまりにもかけ離れすぎているように体験されているのではないかと思うのであります。人と接することは、自分の異常が際立つ場となってしまったり、自分の異質を一層意識化してしまう場となってしまうのかもしれません。
私がお会いした限りでは、そこで他者や周囲がおかしくなったと体験するよりも、自分の方がおかしくなったと体験されている人の方が多いように感じています。というのは、その体験がなければAC信奉が生まれないであろうと思うからであります。後に取り上げるのですが、AC信奉はその異常意識を緩和してくれるからであります。
さて、ここまでの流れをまとめておきます。
彼らには苦しい状況があり、苦悩してきた経緯があります。努力しても上手くいかない体験をしていて、自分に何かおかしなところがあるという自己意識を体験されるのであります。この段階では、そのおかしなところは自分の一部に過ぎないものでありましたが、それに囚われていくうちに、その一部分が意識の全体を占めていって、「自分がおかしくなった」という体験に発展するようであります。自分が他の人と決定的に異質であるという意識から、彼らは孤立していくようになるようであります。
孤立していって彼らに何が生じるのでしょうか。分量の関係で続きは次項に引き継ぐことにします。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)