<#009-26>ACに関する随想(7)
(無力であること)
90年代の記憶論争はなぜ起きたのでしょうか。催眠療法家には信奉している理論があります。これは別に構わないことでありますが、どうもその理論にあまりにも固執しすぎてしまったように私には思われるのです。
現在、ある症状が現れていて、これは過去にトラウマ経験があるに違いないと予測されたとしても、私はそこはムリにほじくり返さんでもいいという考えをしています。当人が思い出せないということは、それは自我がそのように機能しているということだと思います。つまり、現状では自我がその記憶を扱えないので、自我はそれを抑圧しているのだと考えます。従って、もし、その記憶を扱うのであれば、その人の現在の自我がしっかり強化されてからでなくてはいけないわけです。むやみやたらと蓋を開けてもいけないのです。
このクライアントたちには子供時代のトラウマ経験なんて思い出せなかったのです。しかし、催眠療法家はそれがあるはずだと信じているのです。そうしてより深い催眠を施していったのでしょう。
ここで催眠という人間関係を考慮しておきましょう。施術者(催眠をかける方)は被術者(催眠をかけられる方)に催眠暗示を与えます。被術者は施術者の言葉に従うように方向づけられるのです。この時、一種の主従関係が生まれているとみなすことができます。
問題はこの時の「従」の側(被術者)がどういう状態にあるかというところです。ここに着目したいと思います。被術者は施術者の言葉に従うことを求められます。被術者は弛緩状態にある、つまり無力の状態にあるので、施術者の言葉に従いやすくなっていることでしょう。
この無力の状態にあるというところがポイントであると私は思います。無力者にとっては、自力で何かを引き出すよりも、権威者の言葉に従う方がやりやすいことでしょう。その方が安全と感じられるかもしれません。無力であるが故に、追従することを選択してしまうのです。
今、催眠の被術者は無力な状態にあります。強大な影響力を有する施術者が何かを求めています。被術者はそれに応じようとするでしょう。その権威に反するよりかは、何としてでも応じようとすることでしょう。しかも、ただ応じるだけではいけないのです。施術者が期待しているものに添わなければならないのであります。こうして、被術者は施術者に適合していくのだと思います。
被術者は施術者が期待しているまさにそのものの記憶を報告していることに注意しましょう。トラウマ記憶として、これ以上理想的なものはないというような記憶を報告しているのです。施術者の期待にこれほどぴったりと一致する報告を受ければ、私なら少しは疑うでしょう。こちらの期待通りの答えが返ってくる方が却って危険だと思うからであります。
それはさておき、この推測から引き出したいことは、ある人が無力であればあるほど、外側のもの、それも権威のあるものに対して、自分の方から適合させていく傾向を強めるという点であります。自己放棄が促進されてしまうのであります。
臨床心理学の世界では、よく、フロイトのもとにはフロイトの理論に合う患者が訪れ、ユングのもとにはユング理論に適した患者が訪れるなどと言われたりするのですが、その理由の一つは(理由の全部とは言えない)、患者の方が治療者に適合していくからであると私は考えています。
クライアントは多かれ少なかれ無力な自分を経験しているものであります。だから専門家を訪れるわけであります。そのため、多少の適合が見られるものであります。この適合が関係を形成して、維持していくのに一役買うことになるのですが、やがて、そこから分岐していくことが望ましいと私は考えています。つまり、最初は臨床家の見解や理論に適合していても、そこから徐々に枝分かれして、クライアント自身の見解や物の見方を育てていく方が望ましいと考えています。もっとも、それは理想の話で、現実はなかなかそこまで上手くいかないことも多いのであります。
AC者も、少なくとも私が知り得ている範囲では、AC理論に出会う前にけっこう無力な状態な陥っている例も多いのであります。そういう状態でAC理論に出会うと、さぞかし救いが得られたような気持になることでしょう。なぜなら、すべてがそこに説明されているからです。もはや自分を探求しなくてもいいのです。ACの本にすべてが載せられているのです。加えて、偉い大学の先生が書いている本だから間違いないとさえ思うかもしれません。そして、彼が無力であればるほど、AC理論にそぐわない点があったとしても、そこを自分なりに修正していく努力をするよりかは、自分の方からそれに合わせていく方が安心できることでありましょう。こうして、AC者は、誰も彼も同じように訴え、一律の理論を主張するようになるのだろうと私は思います。
記憶論争の話もこれくらいにしておきましょう。この記憶論争で考察した見解をそのままAC問題に当てはめることはできないかもしれませんが、類似の状況を経験することも私にはあります。
AC者の親がカウンセリングを受けていて、子供がこういうことを親からされたと訴えているのですが、当の親はそんなことがあったか記憶にないと言うのです。こういう場面に遭遇すると、私は記憶論争を思い出すのでありますが、その際、私はそれを無理に思い出そうとしないでくださいとお願いしたりします。というのは、親が子供に適合してしまって、ありもしない記憶を作り上げてしまうかもしれないからであります。
もし、どちらの記憶を信用するのかと問われれば、今現在においてより自我のしっかりしている側の記憶を信じることにします。自分がアヤフヤであると経験されている人の記憶はあまり当てにならないかもしれないと思うからです。
ちなみに、この親たちは、私が記憶論争の話を伝えると、とても安心されたのでした。自分がはっきりしていない状態で、自分が不明瞭になっている状態で(ちょうど催眠状態にあるように)は、現実に経験したことと、空想したこと、他で読んだこと、願望したことなどとの区別が曖昧になってしまうことがあるという点が理解できると、この親たちは子供への対処を考えやすくなったのでした。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)