<#009-25>AC問題に関する随想(6)
(90年代の記憶論争)
私が大学生の頃、1990年代でしたが、外国語系の大学に私は通っていました。すでに心理学の勉強をしていた私は心理学書を目当てに大学の図書館を利用したものでした。さすがに外国語系の大学だけあって、サイコロジー・トゥデイとか、そういう外国の心理学雑誌まで置いてありました。
ある雑誌を読んでいた時のことでした。ある記事を私の拙い英語力で読んでいると、なんかアメリカでは催眠とか記憶に関することが話題になっているのだなと思いました。当時はそれがどんな出来事であったのかは分かりませんでした。でも、何かそういう内容の記事は読んだことは覚えています。
後年、まったく関係のない本から、当時論争されていたものが何であったのかを知りました。『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと信じるのか』という本を読んでいたのですが、その本の中に、90年代の記憶論争のことが書かれていて、あの時、図書館で読んだ記事はこれのことだったかもしれないと思うようになったのでした。
まず、その記憶論争の概要を記しましょう。
これはクライアントと催眠療法家との間で起きたことが第一段階としてあります。クライアントたちは何らかの精神症状を訴えて催眠療法家を訪れていたのでした。
しかし、これらのクライアントにはその原因となるような外傷体験が見当たりませんでした。催眠療法家はこの人たちに催眠をかけて、外傷体験を想起させようと試みました。最初のうちはなかなか催眠療法が進展しなかったようですが、やがて、クライアントたちはこれ以上にないというほどの原因を思い出したのでした。彼らは子供時代に親から虐待されたとか性的な被害にあった経験を思い出したのでした。
この論争の第二段階は、親たちが訴訟されたところから始まります。子供を虐待した廉により、親たちが訴えられ、本当に刑に服した親も現れたのであります。苦しい目に遭わされた子供がこうして親に復讐したわけであります。
続いて、第三段階は、親たちが催眠療法家を訴えたのでした。つまり、自分たちは我が子にそんなことをしていないと、親たちは主張し始めたのでした。
第四段階において、訴訟された催眠療法家が敗訴したのであります。つまり、催眠によって想起された記憶は本当の記憶ではなかったことが証明されたのであります。以来、アメリカでは催眠によって想起された記憶は証拠とは認めないという至極当たり前のことが法令化されたのでした。
これが当時の記憶論争の骨子であります。さて、考えたいのは、一体、ここでは何が起きていたのかということであります。
まず、催眠療法家たちに目を向けましょう。
子供時代にトラウマ経験があると、後年になって症状を発生するということは確かにあります。そのトラウマ経験が当人に思い出せないとすれば、それは抑圧の力が働いて無意識化されているからであるという理論にも正当性を認めることができます。さらに、催眠によって抑圧の力を弛緩させれば、無意識化されていたものが意識に上がってくる、つまり想起されるというのも確かであります。催眠療法家たちはこうした理論を信奉していたのでしょうが、理論そのものが間違っているとは私も思いません。
しかし、このクライアントたちは、原因となるトラウマ経験をなかなか思い出すことができませんでした。この催眠療法家たちは、それだけ抑圧の力が強いのであり、そのためもっと深い催眠を施していかなければならないと考えたのかもしれません。私はここに理論に縛られ過ぎている専門家の姿を見る思いがします。
子供時代のトラウマ経験と現在の症状との関係は、公平に見れば次の4つの可能性を持つでしょう。
A)トラウマがあって、症状がある人たち。
B)トラウマがあって、症状がない人たち。
C)トラウマがなく、症状がある人たち。
D)トラウマがなく、症状がない人たち。
このうちAとDは対になっています。トラウマ体験があって症状がある人たちは、トラウマ体験がなくて症状がない人たちと、基本的には同じ範疇に属する人たちであります。Aの人たちが存在するということは、Dの人たちの存在を認めていることになるからであり、その逆も然りであるからです。
ところで、トラウマ研究はAに属する人たちのことはよく研究されているかもしれません。Aの人たちを研究することで、間接的にDの人たちのことも研究されているのかもしれませんが、本来は両者が等しく研究されなければならないと私は思います。
Bに属する人たちのこともおそらく研究対象になっているでしょう。しかし、トラウマ研究がメインにするのはAの人たちであるかもしれません。
問題はCに属する人たちであります。これはトラウマ研究から漏れてしまう人たちではないかと私は思います。しかし、可能性としてはこういうグループの人たちも多いだろうと私は思います。と言うのは、子供時代のトラウマ経験だけが症状を形成するわけではないからであります。
この催眠療法家たちが面接していたのはCに属する人たちであったのかもしれません。しかし、催眠療法家はこの人たちがAに属しているはずだと信じ切っていたのではないかと私は思うのです。もし、そうであれば、催眠療法家は自分たちの理論をクライアントに応じて変えることなく、つまり人に応じて理論を変更しているのではなく、理論に人を適合させたことになるわけであります。
次にクライアントに目を転じましょう。どうしてこの人たちは経験もしていない事柄を経験したと言ったのでしょう。どうして有りもしない記憶を思い出すことができたのでしょう。そこを考えてみましょう。
もし、ここまでお読みになられて、では自分(AC者)の記憶していることは自分が勝手にねつ造したものであると言うつもりかなどと憤慨される方もいらっしゃるかもしれませんので、一つ強調しておきたいのですが、決して記憶の正否を取り上げているのではありません。その点は続けてお読みいただけると理解できると思うのですが、そこに至るまでにもう少しお付き合いしていただくことをお願いする次第であります。
私の考えでは、このクライアントたちは記憶をねつ造したのではなく、催眠療法家の有する理論に自分の方から合わせていったのであります。このクライアントたちは自分では意識していなかったと思うのですが、催眠療法家の理論や意図に自分自身を適合させていった過程があると思うのです。そういう可能性があると私は思います。
今からそれを取り上げていくことにしますが、分量の関係で次項に引き継ぐことにします。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)