#009-21>AC問題に関する随想(2) 

 

(因果の不成立) 

 前項では「因果」ということについて述べてきましたが、ここからAC者の言う「因果」に注目したいと思います。その際、できるだけAC者(あくまで私が関わった範囲の人たちですが)の見解に忠実に従ってみようと思います。 

 彼らの言う因果は、簡略化して言うと、「過去の問題が原因で今の問題(状況)が生まれている」ということになります。 

 この因果は、本当は歴史的因果であり、仮説の域を出ないものでありますが、彼らはそれを証明済みの因果として、つまり自然科学的因果のように主張します。では、彼らの言う因果を自然科学的因果として考えてみましょう。 

 当然、双方向からの検証はここでは無理であります。それが本来は歴史的因果であるためであります。しかし不可能ではないかもしれません。親が悪かったから子供が悪くなったという方向の検証もできるけれど、子供が良くなったら親も良くなったという形で検証が可能であるかもしれません。しかし、AC者はこの方向を拒絶することが多々あるように思います。なぜ、自分だけ良くなって、悪の張本人である親に対して何もしなくてもいいのか、不公平ではないかなどと彼らは思う(あるいは現実にそのようなことを訴える)のです。今は彼らに従いましょう。逆方向からの検証はムリであります。 

 もし、それが自然科学的因果説明であれば、原因と結果とは異なるものでなければなりません。つまり、過去の問題と現在彼に起きている問題とは別種の問題でなければなりません。過去の問題が原因となって、現在の新しい問題が結果として生まれているということになるので、ここには二つの問題が存在していることになります。そして、両者が異なる問題であれば、私たちは両方からアプローチすることもできるし、現在の問題だけに対処しても構わないことになります。彼らはこれを認めるでしょうか。 

 もし、私が「原因となった過去の問題と現在直面している問題とは別種の問題だから、過去の方の問題は脇に置いておきましょう」などと彼らに言ったとしたら、彼らはなんと答えるでしょうか。私は直接的にはこれを問いかけたことはありません。幾分、間接的に、遠回しに尋ねてみたところでは、彼らはこれを別種の問題ではないと捉えているようであります。そればかりか過去の問題を真剣に取り上げないなどと感じて、私に失望するような人もありました。 

 さて、こうなると私は彼らの「因果」に矛盾を覚えてしまうのであります。双方向の検証には応じず、別種の問題であると指摘しても受け入れず、それでいてそれが自然科学的因果説明のように彼らは訴えるのであります。 

 

(継続中の問題~因果の否定) 

 彼らの主張するところのものが本当に正しいのであれば、双方向の検証をしてみるに越したことはないでしょうし、両者の問題は性質が異なることを認めなければならないでしょう。彼らはその両方とも拒否し、否定しているわけであります。彼らの主張を信じて、そのように応じようとすると、拒絶に出会うことになるのです。 

 ここには矛盾や背理があるのですが、どのように考えればそれらが解消されるでしょうか。少しキツイ言い方かもしれませんが、実はこの矛盾は彼らの中にあるものなのです。彼らの中にある矛盾を彼らは最初から言っているのであります。つまり、彼はそこに因果を見いだしているかのように話すのですが、彼ら自身がそこに因果を見ていないのであります。 

 もし、因果が成立しているのであれば、原因となったことに対してアプローチすることもできれば結果の方にアプローチすることもできるでしょうし、どちらか一方にアプローチするだけでも好結果をもたらすことになるでしょう。その場合、よりアプローチのしやすい方を選んでもいいでしょう。彼らは一方だけのアプローチはダメで、他方にアプローチするのでなければいけないと主張するわけですが、これは因果を否定していることになるのです。 

 因果が成立していれば、因と果は別種の問題であることを認めることになるのですが、彼らはこれは一連の問題であり、両者は切り離せないと主張したりします。これもやはり因果の否定なのです。 

 後に取り上げることになるのですが、彼らは最初からそれが「同じ問題」であることを認めているのです。過去の問題と現在の問題とは同じ問題であり、そこには因果なんて成立していないと考えると、彼らの発言に含まれる矛盾や背理が解消されるのです。 

 歴史的因果に関しても、彼らは本当はこれを認めていないのであります。それは歴史的因果ではなく、時間的に前後であったということに過ぎないのであります。因果が成立していないのであれば、過去と現在とは同じことが単に繰り返されていると考える方が理に適っているのであります。 

 例えば、私のようにオッチョコチョイの人間がいるとしましょう。道路を歩いているとしょっちゅうドジなことをやってしまうという人がいるとしましょう。一昨日は歩いていると穴に落ち、昨日は歩いているとバナナの皮で滑り、今日は歩いていて電柱に衝突したとしましょう。ここには何の因果もないことが分かるでしょうか。一昨日に穴に落ちたから昨日はバナナの皮で足滑らしたとは言えないし、昨日バナナの皮で足を滑らせたせいで今日は電柱に衝突したなどとも言えないわけであります。穴に落ちること、バナナの皮で滑ること、電柱に衝突すること、これらは相互に入れ替えることも可能であり、バナナの皮で滑ることが昨日でなければならない必然性なんてないのです。それが今日起きていても、一昨日に起きていても構わないのであります。つまり、意味のある歴史性がここには見られないということであります。単に時間的な順序に過ぎないのであります。ここには因果などなく、同種の問題が過去から現在にかけて反復されているだけなのであります。 

 歴史性を否定しているというのは、過去と現在の二点だけで出来事を表現しているために見落とされているものであると私は思います。AC者は子供時代のことを訴えます。そして現在の苦境を訴えます。この二点だけで捉えると歴史的因果に見えてしまうのではないかと私は考えています。 

 実際には、子供時代から現在までの期間があり、その間に彼らは多くの出来事を経験しているものであります。しばしば、彼らの話にはこの中間の時代が省かれるのであります。そこを省いてしまうので、実は反復であったものがそうではなかったように見えてしまうのではないかと私は思うのです。 

 しかし、不思議なことに、彼らの中にはこの反復を認識しており、それを言葉にして表明する人もおられるのです。つまり、最初から歴史性という部分を否定しているのであります。つまり、歴史的因果でさえ初めから認めていないというような人もおられるのであります。 

 彼らの中には私に否定されたといった経験をしてしまう人もあるのですが、実は当人自身が否定していることもあるように私は感じております。ただ、彼らは自分がそういう否定をしているということを自覚していないのであります。もっとも、こうした無自覚は私たちの誰もがやってしまうことでもあるので、これをAC者の特徴とするわけにはいかないことでありますが。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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