#009-20>AC問題に関する随想(1) 

 

(始めに) 

 この節は私が別の目的で書いた原稿を加筆修正したものであります。そのため、本章の他の項目との重複も見られるかもしれません。できるだけ重複箇所は省略する予定でおりますが、少々の重複はご了承願いたいと思います。 

 また、断片的な内容を蓄積するだけで、まとまりを欠くことになるだろうということも申し添えておきます。 

 

(因果) 

 私が直接的に、あるいは間接的に(これは当人の親などとお会いしたケースであります)お会いした限りでは、AC者(自称の有無を問わず、AC理論を信奉している人をこの言葉で呼ぶことにします)には共通して話す事柄があります。 

 一人一人のAC者は、年齢も違えば性別も異なり、その置かれている現状や心的状態もさまざまでありますが、同じような内容のことを言うのです。それはある種の因果関係であります。それを簡略化して述べるとするなら「過去の親との問題のせいで今の自分の問題が生じている」ということになるでしょう。過去の問題が原因で、その結果として今の問題あるいは状態が生まれているということを、彼らは異口同音にして訴えられるのであります。ある種の因果関係を表明されるのであります。 

 最初に、因果ということについて考えてみましょう。 

 例えば、水槽の水が蒸発したという場合を取り上げましょう。この水が蒸発して気化したのは熱によるためであります。熱が原因で、結果として水の蒸発という事態が生まれたということであり、ここには一つの因果関係があるということになります。 

 この因果は検証することが可能であります。水を熱してみればいいのです。コップに水を入れ、火で熱して、確かに水量が減ったということであれば、熱によって水が蒸発するという因果が証明できるわけであります。 

 これは逆の手順でも検証することができます。水が熱せられると蒸発するのであれば、大気を冷やせば水が発生するはずであります。コップに氷水を入れて置いておきます。するとコップの外側に水滴が現れます。大気中の温度の低い部分に水滴が生じているのであるから、確かに空気を冷やすと水が発生することが確認できたということになります。 

 ちなみに、上述の逆の手順ということは少し記憶にとどめておいていただきたく思います。原因から結果の方向で因果を証明することもできれば、結果から原因の方向で因果を証明することも可能であるという点であります。 

 因果は両方向で検証することが可能であるという点に加えて、因果は必ず別物でなければならないという点も押さえておきましょう。 

 上述の例では、水に生じることは熱(火)が原因であるということでありましたが、水と熱(火)とは別の物質であり、別の現象であります。原因となったものと結果として生じたものとが同一ではないわけであります。作用を与える物質と作用を受ける物質とが異なっているわけです。 

 この点を押さえると次のことが言えます。同一のもの、同種のもの、同質のものは因果を形成できないということであります。もちろん例外はあるかもしれません。それに私は物理学や化学には詳しくないので、私の述べていることも本当に正しいのかどうかも定かではありません。しかし、とりあえず、本節においては、同一のものは因果を形成できないと仮定しておきましょう。 

 水によって水が蒸発したのではないのです。熱せされると気化するというのは水が有する性質とみなすことができ、この性質は因果を形成するのに一役買っているのですが、水が水を蒸発させるわけではないのです。因と果は両者が異なるもので成立する現象であります。 

 原因と結果が異なるなら、その両者に対して対処することが可能となります。水槽の水を蒸発させないために両方からのアプローチが可能となります。 

 原因である熱の方に対処するとすれば、例えば、水槽を断熱材で作るとか、地面の熱を受けないように高床式にするとか、太陽の熱を受けないように日陰に設置したり日よけを作るとか、そういう対策が可能であります。 

 結果である水の蒸発という部分に対処しようとすれば、例えば、蒸発する以上に水を供給するシステムを作るとか、蒸発した水を冷却して循環する装置を建造するとか、そういった対処が考えられそうであります。 

 ここまで因果について述べてきましたが、少しまとめておきましょう。因果は検証ないしは証明することが可能であり、それは双方向から可能であります。原因となる要素と結果となって生じる現象とは異なるもので構成されており、両者が異なるが故に両者それぞれにアプローチすることが可能であります。 

 私は因果とはそういう性質を持つものであると考えています。 

 

(もう一つの因果) 

 しかしながら、因果関係にはもう一つ異なった種類のものがあります。より正確に述べると、因果関係の説明には二種類あるということなのですが、一つは自然科学的説明であり、上述したのはこちらに属するものでありました。もう一つは歴史的説明と呼ばれるものであり、歴史的因果であります。 

 基本的に科学は両方の因果を認めているのですが、歴史的因果には若干の注意が必要であると私は考えています。 

 まず、歴史的因果というものは検証したり証明したりすることが極めて困難であります。しばしば因と果の時間がかけ離れていることもありますし、過去の一回だけの出来事がこの結果を生み出しているということもあるからであります。証明するには時間が経過しすぎているし、繰り返し再現できないものであるために、歴史的因果は実証が難しいわけであります。 

 従って、歴史的因果とは、一つの仮説の域を出ないのであります。過去にこういうことがあって、現在これが生じているという歴史的因果説明は、自然科学的因果説明よりも確実性が低くなってしまうのであります。過去の資料その他を検証して、過去にそれが起きたから現在のこれが起きていると、ある程度確信を持って言えるとしても。それを実証するということは極めて困難であります。どうしても仮定や可能性の域を出ないのであります。たとえそれが有力な仮定であり、限りなく確実に近い可能性であったとしても、やはり一つの仮定であり、可能性としてあり得るという範囲を出ないものであります。もし、その歴史的因果に矛盾する資料が現れたりすると、この因果に変更が加えられることもあるのです。 

 このことは、自然科学的因果と歴史的因果とはその性格が異なるということを示してます。両者は区別しなければならないものであると私は思います。従って、歴史的因果を自然科学的因果のように扱うことは控えなければならないし、自然科学的因果に歴史的因果を混入させてもいけないわけであります。 

 

 科学の領域は私は専門外なので、私の述べていることが正しいとは限りません。私は因果とはここに述べたようなものであると理解しているのですが、私の個人的理解に過ぎないかもしれません。それでも、一応、この理解に基づいて、AC者の主張する「因果」を次項から見ていきたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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