#009-1>私は「反AC論者」である  

  

 本サイトではこのテーマを削除しようと考えていましたが、やはり私自身の立場を表明するためにも再度取り上げることにします。「AC(アダルトチルドレン)」とその親のテーマであります。  

 個人的にはAC理論とか共依存理論というのは、私にはひどく危ない理論のように思えるのです。その点は追々述べて行くことにして、最初に一つの例を挙げようと思います。  

  

 斉藤学先生の論文「共依存と見えない虐待」(『こころの科学No59』に所収)より、そこで挙げられている事例を見てみましょう。  

 ある母子の話です。深夜遅くまで机にかじりついて勉強している高校生の息子に母親が夜食のラーメンを運びました。息子は何も言いません。母親は息子の後姿を見て「頑張ってね」と声をかけたのでした。次の瞬間、ラーメンが母親に投げつけられ、「これ以上、どう頑張れと言うんだ!」という息子の罵声と共に、母親への暴力が始まったのでした。  

 斉藤学先生の言うところでは、「親の期待で子供を縛るという虐待」に母親は気づいていないということです。そして、斉藤先生はこうも言っています。「そんな時、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりもましである」と。  

 私はこんな異常な理論をこれまで聴いたことはありませんでした。私の考えでは、そこでラーメンをぶっかける子供よりも、ぶっかけない子供の方がはるかにましなのです。さらに言えば、「お母さん、僕は僕で頑張っているから、頑張れとか、もうそんなことは言わないで」ときちんと言える子の方がましなのです。  

 私が異常だと感じるのは、こんな形でしか表現できない子供がまったく問題視されていないということなのです。言い換えれば、行動化が推奨されている(ようにしか私には見えないのですが)ような理論がマトモであるはずがないと私には思えたのでした。  

  

 そもそも親は子供に期待をかけるものではないかと私は思うのです。全く期待をされないことの方が虐待に当たるのではないかと私には思われるのですが、いかがなものでしょうか。  

 もし、親の期待が見えない虐待であるという見解を採用すると、一方的に親が悪者になってしまうことになるのではないかと私は思うのです。極論を言えばそのに期待をかける人はすべて悪になってしまうのではないかと思うのです。  

 そうなると、子供はスプリッティングすることが許されるという状況になってしまわないだろうかとも危惧するのであります。事実、「自称AC」たちはこうしたスプリッティングを頻繁にやるように私には感じられているのですが、これは統合されていかなければならないことではないかと私は思うのです。つまり、親は期待をかけ、他方ではその期待に沿えない子供を許すのでありますが、同じ一人の人間にこの二つの感情は同居しているということが理解されていく方が望ましいと私は思うわけであり、スプリッティングは両者を分割したままにしてしまうわけであります。  

  

 少し話が逸れたようなので、話を戻すのですが、この息子さんは遂にキレたわけです。キレて母親にラーメンを投げつけたということです。これは本当に許される行為なのでしょうか。もし、母親の期待のせいで息子がこういう行動化を起こしたのだという因果を認めるとしても、この行動化が安易に正当化されてしまっているのではないでしょうか。  

 この行動は本当に正当化されるものでしょうか。私からすると、この行動化が正当化されてしまうと、この子供は社会で生きていけなくなるという印象を抱いてしまうのです。つまり、私たちは生きているとキレそうになる瞬間というものを度々経験するものです。時には今にもはち切れんばかりになっているのをグッとこらえなければならない場面もあるでしょうし、そこまで溜め込む前に感情を処理しておかなければならない場面もあるでしょう。思い通りに行かない場面や不条理な場面というものにも繰り返し遭遇することでしょう。いちいちキレていたら生きていけないかもしれません。社会に生きる人たちはそうしてキレないように自分を維持しながら生きているのではないかと私は思うのです。  

 だから、キレそうになるのをグッとこらえる人の方が、キレてしまう人よりもましであると私は思うわけです。  

  

 しかし、不思議なことを斉藤先生は述べておられるのです。「共依存」というのは自他の区別が曖昧な関係であるということを斉藤先生は、同論文において、正しくも指摘しておられるのです。  

 必要なのは自他の区別ということであるとすれば、なおさら、ラーメンをぶっかけない子の方がましであるということになると私は思うのです。つまり、母親が夜食のラーメンを持ってきて、そこで気に障る一言を母親が放ったとしても、自他の区別がついているということは、「いま、僕は母親から気に障る一言を受け取った。このラーメンを母親にぶつけてやりたい。でも、母親は僕を苦しめるつもりでそれを言ったのではないかもしれない。それに僕は若くて力もあるけど、母親は年配で尚且つ女性である。僕が全力で殴り掛かっていい相手ではない。だから、そういうことをしたい気持ちがあっても、僕はここでそれを実行してはいけないのだ」というように考えられるということではないでしょうか。  

 斉藤先生の言っていることには矛盾があるように私には感じられるのです。自他の区別がついている子供なら、ここで母親にラーメンを投げつけたりはしないのではないかと私には思われるのです。しかし、斉藤先生はラーメンをぶっかける子の方がましだと言っておられるのです。自他の区別のついていないことが共依存の問題であると述べている一方で、自他の区別がついていない子の方がましだと言っているように私には聞こえてしまうのです。そこに矛盾を感じてしまうのでした。  

  

 私はそういう矛盾を感じてしまうのですが、この種の矛盾はAC理論の中にそもそもの初めから含まれているのかもしれません。  

 この矛盾のために、ACから抜け出るための理論は、むしろその人をACに押しとどめることになると、そういうふうに私には感じられてくるのです。ACから脱却するためにAC行為が推奨されてしまうというような矛盾が生まれるのではないかと、そう感じてしまうのであります。この点に関しては後々取り上げるつもりでおります。  

  

 子供は成長して大人になっていかなくてはいけないのです。大人になるとは、大人社会で何者かになっていき、その社会において生きていけるということです。そのために必要な成熟があり、身につけなければならない強さも求められるものだと思います。  

 母親にラーメンをぶっかけたあの息子は、それをすることによって、本当にこの目標に到達できるでしょうか。むしろこの目標から遠ざかる行為でしかないように私には映るのですが、いかがなものでしょうか。  

 AC理論は、その理論の正否は問わないとしても、本当にその目標を達成できる理論であるかどうか、私には疑問なのです。と言うのは、私の個人的な経験もあるのですが、AC理論を放棄した時に、初めて私は自分の生を生きるようになったと感じられているからなのです。そういう私の経験も綴ることができればと考えています。  

  

 私は「反AC論者」であるので、AC理論を信奉している人たちから見ると、恐らく「こいつは何も分かっていない」などと思われることだと思います。それはそれで構いません。人には自分の思想を持つ自由と権利があると思いますので、人の思想にとやかく言うつもりは私にはありませんし、また、私の思想に関してもとやかく言われるのを私は好みません。私は私の考えるところのものを文字にしていくだけであります。  

 一つ注意しなければならないのは、理論そのものの問題と、その理論を活用するその活用の仕方の問題との区別であります。「自称AC」の人たちは、AC理論を自己弁護に利用するだけでなく、他者を攻撃するためにも利用しているという印象を私は受けるのですが、これはやはり間違っていることであるように私には思われるのです。その辺りのことも、今後、記述できればと考えています。  

  

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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