<#009-18>AC信奉者における葛藤処理(2)
(ケース・50代男性会社員)
この男性は私のクライアントだった人です。彼は青年期の課題を十分にクリアしていないところがあり、その問題が中年に入って再燃したところがありました。仕事も人生もあまり上手くいっておらず、子供時代のひどい体験を盾にしていかなる変化や改善も拒むという、私としては非常に厄介極まりない人でした。この人のエピソードを拝借します。
その日、彼は会社の早番の日でした。早番の日は他の社員さんたちよりも少し早めに出勤して、職場環境を整えることになっていました。
彼が職場に行くと、社屋の一部が汚されているのが見えました。彼はそのままそこの掃除を始めたのです。結果として、彼は早番をサボったことになり、おまけに大いに遅刻までしてしまったのでした。彼は上司からこっぴどく叱られたのですが、どうも彼は自分が何で叱られたのか理解できていないようです。
彼の会社では清掃の職員を雇っているそうです。この清掃職員が社屋の内外の清掃をすることになっています。だから彼が発見した汚れもこの職員さんたちが清掃することになるはずでした。それを彼が先回りして清掃したわけなので、いわば、清掃職員さんたちの仕事を彼が奪ったことになるのです。
どうするのが良かったのでしょう。私の思うところでは、彼は出勤して早番の仕事を終わらせるべきでした。それからあそこが汚されているから清掃お願いしますと清掃職員さんに言伝してもよかったでしょう。どうしても自分でやりたいのなら、外の清掃をしていますと誰かに伝言を残すとかしてもよかったでしょう。
いずれにしても、彼の行為は他の人のことをまるで考慮していないものなのであります。先の女子高校生のエピソード同様、彼は自分勝手な行動に走ったということになるわけであります。その自分勝手という部分で彼はお叱りを受けているわけであります。
この男性には他にもいくつか同種のエピソードがあります。
ある時は、彼が出勤途中で事故を目撃してしまいます。怪我人が出たようで、彼は救急車を呼ぼうとしたところ、他の通行人がすでに救急車を呼んでいるのを目にしたので、彼は呼ぶのを控えます。それはそれでよろしいのですが、彼はその後もその場に残って、救急車がやって来て、怪我人が搬送されるまで見届けたのでした。当然、彼は遅刻してしまい、そして当然のことながら上司からお叱りを受けたのですが、やはり当然のことながら彼は自分が何で叱られているのか理解できないのでした。
(葛藤)
テーマを整理しておきます。この男性は一方では会社に行かなければならないとか、早番をしなければならないと体験しています。他方では、彼にとってそれどころではない事態が生じています。社屋が汚されているとか、怪我人を目撃してしまったとかいった出来事が彼の心を占めてしまっています。通常であれば、ここに葛藤が生まれるはずであります。彼はその葛藤を経験しているでしょうか、その葛藤の存在が意識化されているでしょうか。
確かに、人によって異なるでしょう。葛藤が意識化されている人もあれば、葛藤が意識化される前に他の何かがそれをさらっていくという人もあるでしょう。私の個人的な印象に過ぎないのですが、AC信奉者たちの多くは葛藤を経験していないように思えるのです。葛藤は経験される前に、速やかに解消されてしまっているように思えるのであります。一体、どういうことが彼らに起きているのでしょうか。
しかしながら、先の高校生の女性にしろ、本項の男性会社員にしろ、葛藤が存在するとすれば、一方は義務と呼べるものであり、他方は彼らの個人的感情であると表現できるように思われます。
そのように表現すれば次のように言えるかと思います。義務と感情との葛藤が生じた場合、彼らは速やかに感情に従う、と。あるいは、義務と対立する感情が生じた時、感情が速やかに義務に取って代わられる、と。
もし、上記のことが速やかに彼らの内面で行われるとすれば、彼らは葛藤を経験することはないと言えるかもしれません。事実、私はそうであると考えています。彼らは葛藤を経験しないのです。それを経験する以前に感情がすべて持っていってしまい、感情がそこに置き換わってしまうと私は見立てています。
従って、猫を埋葬した女子高校生は、猫を埋葬している間もまったく葛藤は経験していなかったでしょう。社屋の掃除をやった男性会社員は、それをしている間中、自分は今日は早番であるということとなんら葛藤を経験していなかったことでしょう。彼らにとっては、自分がそれをするのは正しいことであると信じられていたのではないかと思います。それに反する何かがあるとは露とも思い浮かべなかったのではないかと想像します。
もし、彼らに葛藤が存在していたとすれば、彼女がネコを埋葬している間も、彼が社屋を清掃している間も、彼らは後ろめたい気持ちに襲われていたり、居心地の悪い思いなどをしていただろうと思います。しかし、彼らの話からはそういう様子が伺われないのであります。もはや葛藤は一切存在していなかったように私には思われるのであります。
葛藤が存在しない以上、後悔も生まれないことだと私は思います。あっちを選択したけれど、やはりこっちを選択しておくべきだったなどといった後悔は生まれないと思うのです。そのような後悔は葛藤が意識されて可能になるからであります。
また、私たちが悩むという場面の多くは葛藤に曝されている状況で生じます。あれもしたいしこれもしたいが両方一度にはできないとか、本当はしたくないけれどしなければならないとか、あれもしたくないしこれもしたくないけれどどうしても一方を選ばなければならないとか、そのような状況に立たされて人は悩むのであります。葛藤を経験しないということは悩むことのない生き方になるわけであります。
AC信奉者の人たちは、私は正直に申し上げるのですが、まず悩むということがないのです。困惑するとか、苦しいとか痛いとかいった体験はあるけれど、何かについて悩むということをしないのであります。悩むことができないので、彼らはその代理として、何かを調べたり、周囲や他者を変えることに専念してしまうのだと私は思うのです。
さて、少し話が先走り過ぎてしまいましたが、私たちは葛藤についてもう少し考えてみたいと思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)