<#009-07>AC信奉者の諸問題~序説 

 

(再びAC問題へ) 

 私は反AC(アダルト・チルドレン)論者であるとこのサイトで謳っているのですが、それにもかかわらず、AC信奉者の来談があります。どうやらこのサイトはまともに見られていないらしい。 

 もっとも、彼らが来談してくれる分には構わないことであり、彼らとお会いできることも私としては嬉しい限りであります。しかしながら、彼らに対して私は大してお役に立てないということも自分ではよく分かっており、わざわざ来談していただくのも申し訳ないという気持ちに陥ることもあります。 

 また、親の立場の方が来談されることも増えてきたように思います。AC信奉者から「毒親」とされている親たちが子供に手を焼いて来談されるのです。その親子の間で過去に何があったかはともかくとして、親たちの現在の苦悩に対しても私には共感できるところがあり、時にはその親たちに敬意を払いたくなることもあり、また援助したい気持ちに駆られることもあります。 

 反AC論者であることを宣言してから以後、もうAC信奉者やその関係者とお会いすることはないだろうと私は信じ切っていました。でも、こうしてAC関連の人たちとの関りが増えることによって、私は再び彼らについてあれこれと考えざるを得なくなった次第であります。ここでは現時点での私の見解を綴ろうと思います。特に、AC信奉者の何が問題となるのか、そして彼らの行く末にどのようなものが待ち構えているのか、そういうことを私の体験に基づきながら、私なりの見解を述べていくことにします。 

 

(AC者からAC信奉者へ) 

 ところでお気づきのように、私は彼らを「AC信奉者」と呼んでいます。以前であれば「AC者」とか「自称AC者」などと呼んでいたのでしたが、今ではAC信奉者と呼ぶようになっています。 

 最近思うのは、ACはもはや一つの「宗教」のようなものであるということです。AC信奉者とは、いわば、AC教の信者さんのような位置づけを私はしています。 

 実際、AC信奉者を援助するとは、宗教団体から信者さんを脱退させるようなニュアンスを私は感じています。極端な話をすると、彼らは決して現実を見ずに、何があっても経典(AC理論)にしがみつくという頑固さがあり、その信奉の強力さとその他の事物に対する抵抗とは並大抵のものではないと感じております。 

 先ほど、私が彼らに対してはお役に立てないと申し上げたのもその意味であります。誰が何をしようと彼らの信仰を変えることはできないのであります。一筋縄ではいかないのであります。 

 もちろん、人が何を信仰しようとその人の自由であります。ただ、この宗教(AC)は、信者をして階段を上がらせるものではなく、むしろ階段を下りさせるものになっているようであり、加えて、その周囲の人たちにも良からぬ波紋が広がってしまうのであります。要するに、周囲の人もそのとばっちりを食うようなことになるのです。従って、この宗教は、人を幸福にするよりかは、人を不幸にすることに貢献するものであるようだ、とそのように私は考えております。 

 

(信念はその人を規定し、同じ信念を持つ人同士は似てくる) 

 宗教の話が出たついでに少しだけ脱線します。ある人の認識や思考、言動はその人の有する信念に大きく規定されるものであります。その人がどんな信念を持っているか、極端になればどういうものを信仰しているかによって、その人の認識、思考、行動等が方向づけられ、決定されていくわけであります。 

 そして、同じ信念を有する人どうし、同じ信仰を持っている人どうしはその言動が似てくるのであります。 

 このことを理解するには宗教に目を向けるのが一番よろしいかと思います。例えば、キリスト教があります。信仰の篤い人たち、例えば神父とか牧師とかいった聖職者になると、彼らの言動はお互いに似てくるのです。多くの文献などに残されているので興味のある方はお調べになられるとよろしいかと思うのですが、例えば殉死するような場面では彼らはみな同じような振舞いをし、似たような態度を示すのです。これは彼らが同じ宗教を信仰していることの証拠でありますが、同じものを信仰しているから類似の場面でその言動が似てくるのであります。 

 仏教でもやはり同じことが言えるだろうと思います。同じものを信仰している僧侶たちにあっては、その認識や思考、行動がかなり似てくるのであります。 

 これがパーソナリティの違いとして結晶化されることもあります。キリスト者らしい性格傾向とか仏教徒らしい性格傾向とかいったようなものが認められることもあります。 

 職業的性格傾向が日常ではよく見られるでしょうか。教育を信仰している(おかしな表現ですが)教育者どうしであれば、その考え方や言動は似てくるでしょうし、法律家どうしにおいても似てくるでしょうし、医師もまた似てくる部分があるでしょう。こうして、ある人を見て、この人は学校の先生っぽいとか、お医者さんっぽいとか、そういう推測を私たちがしてしまうことがあるのも、それもそれぞれの職種に共通している傾向を知らず知らずのうちに私たちが感じ取っているからでありましょう。 

 同じ信念を有する人どうしというものは、そうして似てくるところが増えてくるものであります。同じような行動をし、同じような考え方をし、似たようなことを言うということが生じるわけであります。 

 AC信奉者も同様であると私は考えています。彼らはAC理論を信奉しています。その信念・信仰は彼らの言動に影響し、彼らの思考や認識を方向づけるので、彼らの言動も似てくるのであります。同じような行動をし、同じようなことを言い、同じような反応をし、同じような認識をし、同じように考え、同じように理論に当てはめるのであります。 

 そうすると一つの「典型」が生まれることになります。類似しているものを抽出したら典型的な行動とか典型的な反応、典型的な思考などというものが概念化されてくることになります。 

 実際、私はAC信奉者にはある程度「典型的」なパターンがみられると思っております。そして、このパターンが見られる人をすべてAC信奉者としております。自称の有無は問わなくなりました。 

 本節ではいくつかのケースを例示したいと考えていますが、自分ではAC信奉者とは思っていないという人たちもこの中には含まれています。典型パターンが見られた人はすべてAC信奉者のカテゴリーに含めています。 

 

(サンプルの偏り) 

 また、このことも随所で述べていることですが、ここでも繰り返しておきましょう。私は私がお会いした人たちとの経験に基づいて述べていきますが、そこには必ず「サンプルの偏り」と呼ばれる現象が生じていますので、私の述べることは決して一般化できないものであるということを再度申し上げておきます。 

 AC信奉者であっても、カウンセリングを受ける人と受けない人とでは相違があるでしょうし、さらに私を選ぶ人には何らかの傾向が認められることと思います。つまり、カウンセリングを受けるという人においても、私を選ぶ人たちと他のカウンセラーを選ぶ人たちとの間には相違があるだろうということであります。 

 そうして自ずと「サンプルの偏り」が生じてしまうわけであります。その点はとかく念頭に置いておいていただきたく思います。 

 

(共通する問題点) 

 さて、AC信奉者がそれぞれ似てくるということは、彼らが抱えてしまう問題もまた似てくるということであり、実際、私はそのように思います。つまりAC信奉者はどの人も同じような問題を抱えてしまうということであります。私はそうした諸問題を6つに分類して述べようと思います。 

 さらに言えば、彼らの行く末、末路も似てくると私は考えています。ただし、これに関しては、その末路に至るまでにそのAC信奉者がどういうことをするかで変わってくるものであるとは思います。同じ末路を辿るかどうかは、その人がAC信奉からどれだけ抜け出せるかで変わってくると私は思います。 

 さて、分量の関係で続きは次項に引き継ぐことにします。私たちはまず6つの問題を大まかに確認して、個々のケースを検討しながらさらに細部に入っていくことにします。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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