<#008-25>親と子(5)
取りとめもなく綴ってきましたが、<#008-21>から述べてきたことを、いくつか書き漏らしたことを付加しながら、まとめておこうと思います。
(家族)
子供のことでカウンセリングを受ける親たちは、夫婦が二人そろっている例が多い。ここには父、母、子供の三者による構図があるのです
構図は三者によるものですが、その関係の在り方は二者関係の延長のようなものになります。必ず、疎外される人が現れ、板ばさみになってしまう人が現れるのです。その人がクライアントになることが多いのです。
(子供)
子供は無職状態でひきこもりのような状態にあることが多いのです。
家族の中では、立場的に弱かったり低かったりして、目立たないとか中心に入ることのない子供であることが多いようであります。
過去に不登校の経験のある子供も多く、また、人間関係が不得手であることが共通して見られるように思います。これまでの人生において、とかく躓きを経験しやすい人であることが多いようです。
子供は、苦しいことは経験するけど、あまり悩むということをしないようです。悩む代わりに、他者巻き込みや自己完結の形で処理してしまうのです。
この人たちが悩めるようになれば、当人は主観的にとても苦しい経験をするのです。当人にも周囲にも、その姿は「悪化」のように見えてしまうかもしれませんが、必ずしも「悪化」だけではありません。そこは再度強調しておこうと思います。
家族に対して、母親に対しては依存的であり、父親に対しては敵対的であることが多いのです。母・子連合と父親という二者関係が三者間で成立しているようでもあります。こういう子供の中には、三者関係(つまり社会的な関係)では生きていけないという傾向があるのかもしれず、三者関係を二者関係にせざるを得ないのかもしれません。
(母親)
母親は弱々しい感じであり、実際、不安に襲われやすかったりします。そのため、いろいろなことで追い込まれやすいという人もあります。
そのような人なので、何かにつけて動揺しやすく、子供に対して一貫した母親を見せられなかったという例もあります。
母親たちは、過去には働いていましたが、専業主婦になっている人も少なくありませんでした。子供にとっては特別な存在で、唯一自己開示できる人であったり、唯一依存できる人であったりするのです。母親が専業主婦であると、子供に付き合う時間がとても長くなってしまうようであります。それで母親が疲弊してしまっているケースもあります。
不安と相俟って罪悪感を強く抱えている母親もあります。そのような母親の子供に対する愛情は、どこか罪滅ぼしのような色彩を帯びてしまい、それは過度な自己犠牲といった形で表面化するように思われるのです。
しばしば、子育てを一任されてきた母親であることもあります。父親があまり子供のことに参与しないので、母親の双肩にすべてかかってくるのです。母親にとっては、それが重過ぎると感じられていたかもしれません。時に、子供を手放したくなることもあり、そのことがまた母親の罪悪感を高めてしまうのです。
(父親)
父親は仕事一筋で、エネルギッシュな人が多いようです。家族や家庭をあまり顧みないことが多いようですが、家族に対する愛情が欠如しているわけでもなさそうです。
大抵の場合、父親と子供とは折り合いが悪いのです。時に、子供から激しく痛めつけられるのが父親であることもあります。
父親は父親なりに家族のこと、子供のことも気にかけているのですが、しばしば、子供から激しく攻撃され、家族を敬遠したくなってくることもあるようです。この傾向が、母と子の結合をさらに強めることになってしまうようにも思います。
父親は仕事に価値を置いているようですが、貧しい子供時代を経験していたりして、下っ端から叩き上げてきたというような人もあります。家庭的にあまり恵まれていないという人もあり、家族がどういうものであるかをよく知らないのではないかと、そのように思われる父親もあります。いずれにしても、とかく苦労をしてきた父親たちであることが多いと私は感じています
社会的にはよく適応している父親が多いのですが、中にはけっこうギリギリの適応をしている父親もあり、その場合、外面だけがすごくいいように周囲には見えてしまうようです。家の外と内とであまりにも別人のように見えてしまうと、子供はそれを統合することが難しいと感じてしまうかもしれません。
一方、家庭でも仕事人間であるという父親もあります。家の内での顔を持たない人であります。
時に、その強気の性格が災いして、子供に手を上げることもあります。子供はそれをいつまでも覚えている(根に持っている)こともあります。父親たちは、自分もそのようにされた経験があるので、それが普通のことだと信じていたりします。その言葉は、半分は事実で、半分は合理化であるかもしれません。
そのような場合、子供はその「体罰」の意味が分からないでいる例が多いようです。理不尽であると子供が解していることも多いように思います。
(同胞)
子供は一人っ子であることもありますが、兄弟姉妹といった同胞がいることもあります。この同胞たちはそれなりに「上手く行っている」人たちであることも少なくありません。社会的によく適応できていたり、ひとり立ちできていたりします。問題があるとみなされている子供は、そういう同胞に対して、嘆いたりすることもあれば、嫉妬や敵意の感情をむき出しにすることもあります。
しかし、子供の中で、「上手くいっている」子供がいるとすれば、その親は親として「正しい」ことができる親であることを示していると私は考えています。
本当に親として「正しい」ことができていない親であれば、子供全員に何か「問題」が生じているはずなのです。子供の一人だけにそれが生じるという可能性は低くなるという印象を私は受けています。
そのため、「上手くいっている」同胞の存在は、私に希望を与えてくれるのです。この親たちは、問題があるとみなされている子供に対しても「正しい」ことができていくようになるに違いないという希望が私に生まれるのです。
(夫婦仲)
父親と母親の夫婦仲は必ずしも悪いわけではないようです。感情的なつながりが乏しくなっていたりしていても、不仲であるわけでもないようです。
家族のことで分業体制を続けてきたことも関係するかもしれません。父親は仕事、母親は育児と、分業でやってきたことが多く、それが二人の間の距離を生み出しているかもしれません。
親カウンセリングが上手くいくと、夫婦仲が改善されるという副次的な結果が得られることもあります。子供のことで協力するようになるからでしょうか。
(家族仲)
両親と子供を含めた家族関係も必ずしも悪いわけではありません。むしろ、かつては仲の良かった家族であったことも多いのです。家族が上手く行っていた時代があるのです。おそらく、それがあるから、子供は家を出ることができないのでしょう。同じように親も子供を勘当できないのでしょう。物心ついたときから仲の悪い家族であれば、子供はさっさと家に見切りをつけて飛び出していただろうと私は思います。
本来、仲の良かった家族であったから、改善される可能性があるのです。家族関係が再び良くなるのです。かつてできていたことを、これからできるようになるのです。決して無から有を生み出すわけではないのです。ただ、仲の良かった時代のことは、失われているか、見えなくなっているか、別の感情ですり替えられているかしているのだと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)