<#008-23>親と子(3)
(両親)
ここまで子供のことを取り上げてきましたが、親に視点を移しましょう。子供にもさまざまな個性があり、状況があります。同じように両親それぞれに個性があり、置かれている状況があります。
子供のことで来談されるケースでは、まず親が二人とも揃っていることが多いのです。片親では問題の傾向などに違いがあるようにも私は感じているのですが、あまり確信は持てません。父、母、子供という、この三者関係でなければ生じないことも多いようであります。
もし、親と子の二人関係であれば、一方が他方を排斥すれば済む話なのです。子供が悪くて親は悪くないとか、悪いのは親であって子供ではないとか、そうして一方がスプリッティングされるのです。従って、このような場合は、親は子供を治療に送り込もうとする(もしくは子供が親を治療に送り込もうとする)といったケースになりやすいと私は考えています。いずれにしても、二者関係においては、接近と回避のいずれかになる傾向が強まると私は考えています。
三者関係ということは、必ず中間に立たされる人や、同盟を組まされる人がいるということです。葛藤や格闘の板挟みになる人物が現れるということであります。だから親が来談するのです。私はそのように考えています。
例えば、父親と子供が敵対している状況で母親が板挟みになっているとすれば、この母親が来談する可能性が高いということです。案外、この父親と子供は苦悩していないことも多いように私は感じています。つまり、お互いに悩む以前に衝突しあっていることになるからであります。従って、この場合、父親や子供がカウンセリングを受ける可能性は低いのです。母親が一番困っているのです。
また、子供と母親が同盟を組んでいるとすれば、疎外されている父親が来談する可能性も生まれるのです。もし、母親がその同盟を苦しいものとして経験していれば、母親が来談することもあります。
さまざまなパターンがあるとは言え、親カウンセリングが生じるためには、三者による構図は不可欠な要素の一つなのです。そして、三者において、もっとも困難な立場にある人が来談するのです。この関係において、もっとも苦しんでいる人、痛めつけられている人が来談されるのであります。それは子供の問題の程度や種類とは関係がないと私は考えています。
今述べたことは、つまり、病理の深い人が来談するという意味ではないわけです。たとえ子供が問題をかかえていようと、家族で一番苦しんでいる人が来談されるのです。私はそのように考えております。
(母親)
私がお会いすることになるのは大部分が母親です。子供からすると、母親は依存対象であり、羨望や嫉妬の対象となることもあります。子供のさまざまな感情を投げかけられる立場にあることが多いのです。
ある母親は、どうして母親なのかという問いを発し続けました。子供のことで矢面に立たされている人で、背後に隠れている父親への不満を述べた時に発せられるのでした。
別に男女差別をするつもりは私にはないのですが、どうしても子供と接する時間が、父親よりも、母親の方が長くなるという状況があるために、母子の関係は密になる傾向が生まれてしまうのです。子供にとって、最初の依存対象が母親になることも多くなるのです。感情的にも深く結びつくことになってしまうのです。
たとえ成人年齢に達していても、子供が困難を抱えると、その感情を母親にぶつけることができるのは、その結びつきの強さを示しているように私には思われるのです。
こういうケース、つまり子供のことで親が来談するケースでは、母親はどこか弱々しいところがある人なのです。そういう例が多いという印象を私は受けています。普段はとても優しい人なのですが、不安に襲われるとパニックになってしまったりする人もあります。子供からすると、優しい時とカリカリしている時とがある母親に映るかもしれません。
また、大体においてとても善良な母親なのですが、時に行き過ぎて、自己犠牲的に子供に関わってしまうこともあるようです。「過剰奉仕」とか「甘やかす」と言えば、それは間違いではないかもしれませんが、事態の本質を見失う恐れがあると私は考えます。そこにあるのは過剰な「自己犠牲」であるように私には感じられるのです。
その意味で、母親が自分の生を持たないできたと言えるような母親に私はよくお会いするのです。自分の生を持たないので、子供の生がそのまま自分の生になってしまうといった感じを受ける母親ともお会いすることがあります。
親は、父親も母親も、それぞれ自分の生を持った方がいいと私は考えます。それぞれに生きがいがあり、それぞれが幸福を追求していくのが良いと考えています。その過程において、夫婦が協力し合えるのが望ましいと考えています。
それと言うのも、もし、母親が自分の生を持たず、子供のことがすべてになってしまうと、子供は母親の生も背負わなければならなくなるからです。自分一人の生でさえ重荷になっているのに、そこに母親のものが背負わされることになると、当然、子供は悲鳴を上げることになるでしょう。子供はそれをした母親に敵意を抱くかもしれません。母親に責任を追求したくなるかもしれません。一方で自分に負担をかけてしまう親が、他方で自分にとって唯一の依存対象となっているとなれば、子供は両方の感情に板挟みになってしまうかもしれません。
子供のそうした気持ちも私は理解できないことはないのですが、それで子供が母親を攻撃するとなると、それは少し筋違いな行為であるようにも思われるのです。母のものは母に返し、自分のものは自分が引き受けていくしかないのです。
いずれにしても、母親にはそういう弱々しさとか脆さがあるので、子供のことでもひどく動揺してしまったり、影響を受けてしまったりするようです。不安に脅かされることも多く、それに対して適切に対処できないという母親もあります。
それと関連して、罪悪感を強く抱いている母親もあります。子供のことで相談に行くと、その都度、母親の育児が取り上げられてしまうので、つまり自分の罪があるかのように指摘されてしまうので、相談を受けることに拒否的になっている母親もありました。
子供をもはや抱えきれないと感じている母親、限界を感じている母親もありました。一方で、子供を「まとも」にするまでは自分の責任だと感じて、熱心に取り組もうとされる母親もおられましたが、この母親にはある程度の「強さ」を認めることができるのです。
あまり母親個人のことには踏み込まないようにしましょう。繰り返し述べているように、私がお会いする人たちにはある種の傾向があり、その意味でサンプルとしては偏向が生じているので、一般化していると受け取られそうな表現は慎みたいと思います。
私の経験の範囲では、この弱々しい母親が、家族のこと、子供のこと、さらには自分自身のことなど、それらから逃げなくなると家族全体が大きく変わるという印象を受けています。言い換えると、母親に強さが生まれると、それだけで家族成員が影響されるということであります。
この強さというのは、感情的に強気になるとかいう意味合いではなく、自分に降りかかってくるものを受け止める強さであります。時には子供の意見に反対し、時には父親(夫)に自分の意見を押し通したりするのです。自分自身が自分の行動を選択し、その基準となるということです。
母親たちには、いくら弱々しかったり状況に圧倒されていたりしていても、その人なりの強さというものがあると私は信じています。ある程度の強さがなければ子供も育てられなかったことでしょう。カウンセリングで支持されている経験、それによって安心が回復することで、母親の本来持っている強さが回復されていくのです。母親たちを見ていると、私にはそのように感じられるのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)