008-18>「治療者」になる誤り(前) 

 

 私たちは皆一人の人間でありますが、どの人もそれぞれ役割というものを持つようになります。一人の人間は複数の役割を有し、それぞれの場面でそれぞれの役割を生きることになるのです。 

 母親とか父親ということも一つの役割であり、子供もまた一つの役割であります。家族にもそれぞれの役割があるのですが、どの人もただ役割だけに生きるだけでなく、なによりも一人の人間であります。母親は父親もですが)、母親という役割以上に、一人の人間であることの方が子供にとって好ましい場合が多いと私は考えています。 

 本項では、親が「治療者」という役割を取ってしまうことの誤りを取り上げます。まずは、私にとって苦い経験となったケースを紹介することから始めましょう。 

 

 ある母親は娘の「治療者」になろうとしていました。母親は心理学の勉強をし、カウンセリングなどの「技法」を娘に試みていました。何年もそれを続けてきたのでしたが、それでも何の効果もないということで、母親がカウンセリングを受けに来たのでした。 

 最初の頃、この母親は、自分はカウンセリングを上手くやっているはずなのに、一体、どこが間違っているのか、その指摘だけを私に求めていました。 

 私はその要望には応じず、まず母親に「治療者」役割を取らないように求めました。そこから始める必要があると母親に説得したのです。 

しかしながら、この母親にはそれがどうして良くないことであるのか、なかなか理解できませんでした。娘に問題が生じている母親が「治療者」になって何が悪いのか、娘を治そうとする行為のどこがいけないのか、というわけです。 

そこで、「四六時中、治療を受けていたいと思いますか、医者の診察を受けていたいと思いますか」と私が尋ねると、何となくではあれ、母親は理解してくれたようでした。もちろん、理解してもらうまでにずいぶん時間を要しましたが。 

つまり、母親のその行為は、娘にとっては常に自分が「治療」されているという体験につながり、自分が「治療」の必要な人間であるということを常に感じてしまう体験につながるように、私には思われたのでした。 

もし、そうであれば、母親のその行為によって、娘は自分が「病人」であるかのように体験されてしまうということを私は母親に伝えたのでした。母親と一緒にいるだけで、自分が「病人」として体験されてしまうということであり、その体験は母親が「治療者」役割を先に担うことでもたらされてしまっているということなのです。 

 曲がりなりにもそのことが理解できてから、母親は何とかして「治療者」役割から抜け出そうとしました。でも、一旦、身についてしまったものなので、母親は最初はなかなか上手くできませんでした。娘とのかかわりにおいて、いつどの瞬間に母親が「治療者」になってしまっているかも、私たちが一緒に検討していくまで母親には理解できないでいました。 

 そうした苦労を半年ほど重ねた頃、家族内で動きが見られるようになりました。まず、父親が反応したのです。 

この両親は仲が悪いわけではなかったのですが、どうもこの父親は母親の「治療」行為についていけないと感じていたのか、身を引いて、ずっと傍観者の立場に立っていたようでした。その父親が母娘の関係に入ってくるようになったのです。 

 父親が参入してくることで、母娘の関係にも動きが生じたのでしょう。あるいは、父親が父親として参入してきたことによって、娘には母親がもう「治療者」ではないということが伝わり、娘の安心感が増したのかもしれません。娘も父母関係に参入してくるようになったのでした。 

 母親は回想します。自分たち家族は以前はこうだったということを。母親が「治療」行為をする以前の家族に立ち戻った感じがすると母親は言います。 

 

 さて、いろいろと困難もありましたが、ここまでは順調でありました。この母親のカウンセリングは上手く行くだろうと私も楽観していましたが、この後、問題が起きてしまうのです。 

 ところで、この娘ですが、高校時代に挫折を経験してから不安定になったようでした。かろうじて高校は卒業したものの、それ以来、家に籠りがちな生活を、およそ二年ほど、送っていました。 

 母・父・娘関係が良くなっていくと、娘はアルバイトをしたいと言い始めました。母親もそれを後押しします。そうして娘はアルバイトを始めます。アルバイトは娘にいい意味でも悪い意味でも多くの経験をもたらしたようで、娘はそこで経験したことを逐一母親に報告するのです。母親はそれをよく聴いていました。母親は、カウンセラーとして聴いていたのではなく、母親としてそれを聴くようにしていました。 

 ある時のことです。娘がアルバイトでの困難を母親に話していると、母親は「よくやってるよ」と応じました。その瞬間、娘の表情が強張り、「お母さんは何も分かっていない」と言うや、娘は自室に籠るようになり、再び以前のような生活に戻ってしまったのでした。 

 母親には何が起きたのか分かりませんでした。私たちはそれを話し合うことにしました。 

 「よくやっている」とはどういう意味で、どういうことを娘に伝えたかったのでしょう、私は尋ねます。母親は「よく頑張ってやっているから、その調子で続けよう」と褒めて、励ますつもりだったと言います。つまり、褒めて、さらに良くしていこうと母親は欲張ってしまったわけです。この時、母親は「治療者」の感情になっていたのだと思います。 

 母親は気づいていなかったと思いますが、その言葉を発した時、母親は以前の「治療者」に戻っていたのだと思います。娘はその変化を見てしまったのだと私は思います。娘からすれば、「治療的」雰囲気が家庭から払拭されていたように感じられていたのに、でも、それは嘘で、自分は騙されていたと、そのように信じてしまったかもしれません。いずれにしても、娘は以前よりも頑なに母親を拒むようになったのでした。 

 あくまで私の憶測の域を出ないことですが、「よくやってる」という母親の言葉は「よくなっている」という「治療者」の評価言葉として、娘の中で変換されてしまった可能性があるかもしれません。娘にはそのように聞こえたかもしれません。 

いずれにしても、「よくやっている」というのは、立場的に上の人からなされる評価の言葉であることが多い思うのです。もし、この母親がそれ以前に「治療者」役割を取っていなければ、娘はこれを少なくとも「治療者」の言葉としては受け取らなかったかもしれません。娘からすると、「よくやってる」と母親が言った瞬間、母親が「治療者」に(見たくない母親に)なってしまい、母親(良かった方の母親)がずっと遠くに行ってしまった、母親がいなくなってしまったというように体験されたのかもしれません。娘のひきこもりの再燃母親の喪失体験よるものではないかと私は考えたのでした。 

 せっかく形成された良好な家族関係が、こうして元の木阿弥になってしまったのでした。非常に残念なことだと私も思う次第であります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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