008-14>「すぐに良くなると期待する」誤り 

 

 前項で述べた「記憶違いを正す誤り」が誤りである所以は、それを今すぐ達成しようとするところにありました。同種の誤りには、「謝罪の誤り(今すぐ許してもらおう)」があり、それは次項で取り上げることにします。 

 もう一つ、類似の誤りで「今すぐ良くなると期待する」誤りがあります。これも例によって一つの事例を挙げてみましょう。 

 

(事例) 

 ある母親がカウンセリングの予約を取りました。ところが、その予約時間に現れたのは十代の男性でした。事情を訊くと、母親が予約を取っておいたから受けなさいと彼は言われたそうです。それで彼は従順にも私のところへ足を運んだというわけでした。 

 この男子は高校生で不登校に陥っていました。ほとんど自己開示しない人だったので、できるだけ彼の内面を引き出し過ぎてしまわないように私は気を付けていました。できるだけ彼にストレスをかけてしまわないように注意しながら、何か少しでもお互いの間で窓口になるものが見つかればそれでいいと思っていました。 

 詳細は省きますが、このカウンセリングを彼はそれなりに良いものとして体験してくれたようでした。また来てほしいと私が頼むと、彼もそうしたいと答え、それで別れたのでした。 

 翌日、彼の母親から電話がありました。母親は、息子が昨日カウンセリングを受けたのに、今日も学校に行かなかったと、まくしたててきます。そして、効果のないカウンセリングを止めさせますと母親は言います。私は、それはそれでいいのですが、息子さんは何と言ってますかと尋ねました。母親はそんなこと関係ありませんと言い切り、電話を切りました。 

 不登校の子の母親はとかくせっかちであります。この母親は、おそらく、こうした形で息子の「治療者」をころころと換えていったようでした。息子は信用できる臨床家と出会えることもなく、もしくは出会ってすぐに別れなければならなくなるのです。 

 ところで、この母親のように考えている人も少なくないように思います。一回のカウンセリングで効果が現れると信じきっているのです。実は、それはとても危険な状況なのです。 

 もし、仮に、一回の何かで完全に良くなるという人がいるとすれば、その人は一回の何かで完全に悪くなる可能性のある人なのです。そして、このような人はとても危険な状態にあるのです。一回の体験で、それまでその人の中にあったものすべてが完全に入れ替わってしまうことを意味するからであります。これができるとすれば、この人はかなり精神病的なのであります。 

 従って、一回のカウンセリングで大きく動かされない人の方が健康的なのであります。ゆっくり改善していく人の方が心的によりしっかりしているのです。母親は、あまりに強すぎる不安のために、その過程を待つことができないでいるようです。 

 

(待てない) 

 このケースは、子供のことで親がカウンセリングを受けに来るパターンとは異なり、子供のことで親が子供にカウンセリングを受けさせるというものであります。本章の主旨とは少しズレるのですが、分かりやすいケースなので採用しました。 

 カウンセリングを受けに来る親の中にも、とかく早急になんとかなってくれないかと期待する人も少なくありません。それだけ状況が厳しくなっているという背景もあるでしょう。しかし、ここで問題になるのは、親がそれまで待てなくなっているということであります。 

 前項の父親も、娘が回復して、娘がその疑いを撤退してくれる日がくるまで待てばいいのです。父親はそれが待てない人のようでした。 

 不穏な雰囲気のまま待つというのは、確かに耐え難いことであるかもしれません。それを耐えるのには相当な安心感や安全感、信頼感を有していなければならないかもしれません。「待つ」というのは、それだけ苦しいことであると私も思います。 

 

(「問題」という観念) 

 ここで事態を複雑にしているのは、「問題」という観念であります。私はそのように考えています。私自身、本章においても度々「問題」と言う言葉を使用しているのですが、これは人が示している現象を指しているだけなのです。私たちはついついこの言葉にある種の感情的な色彩を帯びさせてしまうのです。 

 子供に「問題」があるとは、上述の例で言えば、単に「子供が学校に行かない」という現象を指しているだけなのです。私たちはその現象を簡略化して「問題がある」などと言ってしまっているのです。 

 そして、「問題」という言葉に、ある種の否定的な意味合いを持ち込んでしまうのです。これを「課題」とか「テーマ」と言い換えても一向に差し支えはないのですが、「問題」と言ってしまうと、中立的な意味合いを失うのです。 

 もし、親が「問題があるのは子供の方だ」と言うのであれば、「親である自分は問題はない」ということを間接的に主張しているのです。「それがその子の課題である」と言えば、恐らくもっと中立的なニュアンスになるでしょう。 

 そして、「問題」という言葉に否定的な意味合いが込められてしまうと、これはシーソーのような事態になりかねないと思います。つまり、どっちに問題があるか、という観点に行き着くように思います。自分に問題があれば相手には問題がないことになり、自分に問題がなければ問題があるのは相手の方だという観点に行き着くことになると思います。 

 上述の母親は、子供に問題がある(自分に問題がない)、子供を早急に治してほしいと願う(自分は悪いことをしていない)といった認識どこかで陥ってしまっているのかもしれません。 

 待てなくなるのは、しばしば、自分に問題があるとみなされることに耐えられないからではないかとも私は思うのです。投影される「悪」を引き受けられないのだと思います。前項の父親もそうだったのだと思います。娘から一方的に性犯罪者呼ばわりされることに耐えられなかったのだと思います。確かに、これに耐えるということは苦しいことではありますが。 

 耐えられない、待つことができないのは、自分が潔白であること、自分が悪ではないことを、速やかに証明して、とにかく安心を取り戻したいと願うからなのでしょう。自分の安心・安定を最優先していることになると私は思うのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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