<#008-7>子に関して
(意外と子供を見ていない)
クライアントである母親たちはひきこもっている我が子にどう接していいか分からないといった訴えをよくされるのです。私もできるだけ力になろうとは思うのですが、どのように接するかは、子がどんな子であるかによって違いが生まれるものであります。
子はどういう人であるか、これを知ろうと欲すれば普段からその子に接している母親に伺うのが一番であります。そこで「お子さんはどういう人ですか」などと尋ねてみるものの、あまり大した答えが得られないことの方が多いのであります。
少し補足しておくと、そこで外見とか容貌とかいったことを話される母親がけっこうおられるのであります。少しまし(というと語弊があるかもしれませんが)な場合だと、そこに多少のパーソナリティ傾向が付加されるのであります。大人しいとか、人見知りするとか、そういったパーソナリティに関する部分のことが話されるのです。
もう一つ補足しておくと、母親たちはこのような質問が投げかけられることをまるで予期していなかったとみられるケースもけっこうあるのです。子供がどういう人であるか問われるなんて思ってもみなかったといった感じの表情をされるのであります。幾人かの母親は明らかにこの質問に困惑を示されるのでありました。
これはどういうことであるかと言いますと、母親は自分が子供のことについて話すのは問題がないのだけれど、子供のことをカウンセラーから問われると何か心的に落ち着かなくなるようである、ということではないかと思います。なぜ落ち着かない気分になられるかという事情は母親によってさまざまであるでしょう。私の見解では、母親は意外と子供のことを知らないのであります。その無知であることを突きつけられてしまうのではないかと考えています。
それはさておき、本題に戻りましょう。子供との関係を良くしたいという母親の望みを援助しようとすれば、子供がどういう人であるかを知らなければならないのでありますが、この情報は母親から直接窺うことはできないのであります。そのため、母親が子供のことについて話す内容から子供がどういう人であるかを私は憶測していくことになるのであります。
(「ひきこもり」は幅広い概念である)
子がどういう人であるかを憶測していくためにいくつかの視点を私は有しています。それを以後に綴るのでありますが、もう一つ、そのような憶測をしなければならない事情があるので、それを先に述べておきましょう。
母親たちは「子が引きこもっている」などと訴えるのであります。あたかも「ひきこもり」と言えばそれで十分通じていると信じておられるようであります。これは世間一般の人もそう信じているところがあるのではないかと私は思います。
しかしながら、「ひきこもり」にはありとあらゆるタイプの人が包含されているのであります。きわめて大雑把な概念であると私は個人的には思うのであります。「ひきこもり」のような現象は「心の病」のさまざまなものに見られるものであるがゆえに、その一言にさまざまなタイプの人が含まれてしまうのであります。従って、「ひきこもり」をしてると言っても、それだけではその人がどういう人であるかを明確化できないので、その子がどういう人であるのかを見ていく必要が生じるわけであります。
以下、いくつかの観点を述べていきます。
(人格水準または病態水準)
私がまず着目するのは、子の人格水準あるいは病態水準であります。これは、私の使用しているコトバでは、「神経症」水準、「人格障害」水準、「精神病」水準という分類であります。非常に大雑把な分類であることは否めないのですが、とりあえず、そういう水準を設定しています。以後、これらの言葉を使用する機会があると思います。
ただし、これらの言葉にあまり囚われることはありません。「精神病」水準にあるからと言って、その人が精神病であるというわけではありません。例えば、風邪をひきやすい体質の人が常に風邪を患っているわけではないのと同じであります。この喩えにおける体質に近い概念として捉えていただければと思います。
これらの水準の違いは、普段のその子からは判断ができないのであります。子が不安に襲われたり、焦燥感に駆られていたり、いわばパニックのような状態の時にこれらの水準が明確になることが多いのであります。危機やフラストレーションに対して、どれだけ自分を保持できるか、その程度によって判断できるというわけであります。
その他、子のコミュニケーションの対象や内容、様式からも私は判断します。
子のコミュニケーションから、子の現実感覚の程度も私は憶測します。
さらに、子のこれまでの歴史からも判断材料を得ます。「精神病」水準の場合であれば、子が幼い時から何か人と違った言動や様相をしていたことが窺われるのであります。また、ひきこもりの子たちは不登校の経験を有していることが多いのでありますが、その不登校の発生年齢ならびに、「治療」経験のある子であれば、その治療の経緯なども参照するのであります。
(激しさと静かさ)
次に、人格水準という軸とは別に、その子が激しいタイプか静かなタイプかを見極めようと思っております。この判断はさほど難しくはないのであります。激しいというのは、その言動において見られるものであります。つまり、行動化の有無を私は見ようとするのであります。
一つ注意するところは、子が激しい行動化をするから問題が大きいとは必ずしも言えないということであります。激しい場合は問題行動が目立つというだけであり、それはそのまま問題の大きさとか重篤さとかにつながるわけではないのであります。
問題の重篤さという観点で言えば、慢性化の程度で見る方がより確かであると私は考えています。
(内向と外向)
さらに、内向と外向という軸があります。これは自罰的か他罰的かという形で表面化することが多いものであります。
外向的で激しいタイプであれば、親を直接攻撃するなどといった行動化を示すでしょうし、内向的で激しいタイプであれば、自分に危害を加えるとか一人で暴れるとかいったことをするでしょう。
外向的で大人しいタイプというのは、例えば、延々と過去や他人を恨み続けるといった行動を示すでしょうし、内向的で大人しいタイプであれば延々と後悔と自責に念に苛まれるといった行動傾向を示すでしょう。
上記のそれぞれに各人格水準の軸が加わるわけであります。ここでは詳述を省くことにしたいのでありますが、機会があれば別箇所で取り上げることがあるかもしれません。
以上、「ひきこもり」の子を見る私なりの観点を取り上げてきました。個人的には「ひきこもり」という言葉はあまり適切な言葉ではないと考えております。
本項ではひきこもりをしている子について述べましたが、本章は母親に関する章なので、私たちは再び母親について考えていくことにしましょう。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)