<#007-32>臨床日誌~スケープゴート心性
ここでいうスケープゴートとは、禍の元、諸悪の根源、罪があるなどとみなされる人を集団から見出す行為である。その人物に「罪」を着せて、集団から追放できる人を見つけ出すことである。その目的は、意識されていようといまいと、誰かに「悪」を投影することによって、自身の善を証明し、自身を浄化するところにある。
スケープゴートという言葉は日常的にも使用されるが、僕はあまり使わないことにしている。それが本来の贖罪の山羊のイメージからかけ離れているからだ。今回、それに代わる言葉も見当たらないので、人口に膾炙しているこの言葉を使用することにする。
贖罪の山羊に該当する儀式はそれぞれの民族で見いだされるものである。僕は個人的に思うのだけど、日本の節分などは贖罪の山羊に近いものがあると思う。「鬼は外、福は内」といって豆をまく。福の対義語が鬼であるはずはないのだけれど、この「鬼」は「福」の反対内容のものすべてを含む象徴とみなすことができると思う。こうして、鬼に「悪」を投影し、鬼を追放することで諸悪を追い出すことをしているのではないだろうか。
実際に「鬼」が家に来る地方もある。鬼は悪い子を連れに来るのだけれど、鬼は子の「悪」の部分だけを持ち去って、家から追放される。悪い子の「悪」は浄化されることになる。こういってよければ、「鬼」はスケープゴートに等しい役割を担っていると言えそうである。
古今東西、どの民族にも、どの文化にも、生贄を捧げる儀式があった。それは動物である場合もあれば、人間である場合もある。現代社会ではそんな血なまぐさい儀式は行われなくなっているとはいえ、上述の節分の「鬼」のように、象徴を通して行う儀式もある。それらの多くは贖罪の山羊と同様の儀式であるようだ。つまり、自分たちの集団における「悪」の追放と集団の浄化という目的が認められると思う。詳しくは文化人類学や民俗学の書を紐解けばいい。きっといくらでも実例が見つかるだろう。
何が言いたいかと言うと、要するに、スケープゴート心性は人類に深く根付いており、我々にとって馴染み深いものであるということである。どの人もこの心性を有している。数人で集まってコソコソと特定の誰かの陰口をたたいたりした経験は多くの人がしていることだろうと思う。昨今はインターネットの時代であり、個人のブログが炎上するなどといったことがしょっちゅうある。掲示板で特定の誰かを叩き上げるなどということも社会問題となっている。これらはすべてスケープゴート心性の現れではないだろうか。
僕たちはすべてその心性を、多かれ少なかれ、有している。重要なことは、それを変えたり消去したりすることではなく、その心性をどれくらい意識化できているかにあると思う。詳しくは後で述べようと思う。
さて、僕はスケープゴートという言葉を使いたくないと上で述べたけれど、その理由として、それが本来の意味からかけ離れてしまっているからである。それについて述べようと思う。
旧約聖書ではレビ記16章に贖罪の山羊に関する事細かな指示が記述されている。あまりにも細部にわたって決めごとがなされており、読むのさえ煩雑だと僕には思えるのだけれど、興味のある方は聖書を紐解いてみられるとよろしいでしょう。ここでは細部にいたる指示のうち、いくつか重要と思えるものを取り出して述べようと思う。
その章では、アロンが贖罪の儀式を行うことになっている。一頭の雄牛と二匹の雄山羊が用いられる。雄牛はアロン自らが屠り、贖罪の儀式を行う。次に雄山羊の一頭を民の贖罪のために屠る。もう一頭の雄山羊はイスラエルの全会衆のための贖罪に使われる。
この生きた雄山羊の頭に両手を置いて、アロンはイスラエルの民すべての背きと罪を告白する。罪のすべてを引き受けた雄山羊は、選ばれた人たちによって、荒野へ追放される。その雄山羊は集団から疎外されるわけだ。そして、これを追放した人々は身を清めなければ集団に戻ることが許されない。
こうして罪が浄化された民は、その浄化を達成するために、厳密に安息日を過ごさなければならない。この日は何もしてはいけないと固く決められており、これは民にとっては「苦行」となる。
最後の追放される雄山羊が現代のスケープゴートに近い存在と言えると思う。つまり、屠られる山羊ではなく、集団から追放される山羊だ。
ただ上述したものが現代のスケープゴートには欠けているのだ。スケープゴートをする側の罪の告白、贖罪の山羊の神聖化、その後の苦行である。
この山羊の神聖化ということだけれど、全国民の罪を一身に担い、加えて全国民の浄化を行うなんてことは人間業ではできないわけであり、神でないと不可能なことである。そういう意味でこの山羊は特殊な山羊であり、神聖化あるいは神格化されているとみなすことが可能だと思う。贖罪の山羊の山羊は、ただの山羊ではなく、神に等しい山羊だと僕は思う。だから世俗に戻すことが許されないのだと思う。人々はその山羊を敬うことだろうと僕は思う。
現代のスケープゴートは、スケープゴートを担わされる対象を、神格化せず、むしろ貶める。あたかも人間以下であるかのように攻撃する(あくまでも僕の個人的印象だ)。贖罪の山羊は人から敬われる存在となるけれど、現代のスケープゴートは蔑視される存在に堕される。それはスケープゴートをする側の「悪」の露出でしかなく、贖罪とは正反対の行為と言えないだろうか。
そして、現代のスケープゴートは、それをする側の罪の告白を欠く。むしろ、スケープゴートされる側の罪を告発する。そうしてスケープゴートする側の自己の罪は隠蔽する。その罪は浄化されることはなく、ただスケープゴートを担う側に押し付けられる形になる。スケープゴートする側の罪は、贖罪されることもなく、そのまま当人の心に残り続けることになる。スケープゴートする側の罪の告白が欠落しているのである。
最後にスケープゴート儀式の後にもたらされる「苦行」の欠如である。自分の罪が贖罪の山羊によって贖われることは、自分自身にも苦をもたらすものである。同時に、苦行は自分の罪を忘れないためにも必要な過程であるかもしれない。
現代のスケープゴートにはそのような過程が認められないように思う。もし、誰かを告発して、その後、自分自身に苦行を強いるような「告発者」がどれだけいるだろうか。彼らはただ自己の「悪」を誰かに投影し、その誰かを追放することで自己の存在を確保しているに過ぎないのではないだろうか。そうであるとすれば、スケープゴートの作り手も希薄な基盤の上に存在しているだけとは言えないだろうか。
現代のスケープゴートはしばしば取り返しのつかない結末を迎える。聖書に記載されている限り、贖罪の山羊は追放されるだけであった。この山羊は野生で暮らすことが許されるわけである。現代のスケープゴートの引き受け手は、生きることすら許されないような状況にまで追い込まれてしまう。つまり、自殺で結末を迎えることも珍しくないのである。現代のスケープゴートは、アロンの時代のような血なまぐさい儀式こそしなくなっているものの、その時代よりもはるかに残酷である。
こういってよければ、誰かの罪を「告発」するよりも、自身の罪を「告白」する方がよほど人間的である。ただし、罪を告白したものは、スケープゴートの作り手たちによってスケープゴートにされてしまう可能性も高い。本当にひどい世界になったものだと思う。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)