<#007-27>臨床日誌~「はい、でも」「え~、でも~」ゲーム 

 

 こじれる人間関係をエリック・バーン(TA。交流分析の創始者)は「ゲーム」と名付けた。僕はサリヴァン風に「パラタキシス的歪み」などと言いたいのだけれど、ここではバーンにならって「ゲーム」と呼んでおこう。このゲームは、表面的な交流の背後で裏面的交流がなされているところにその特質がある。 

 ゲームは法則(ルール)があり、構造があり、展開があり、結末がある。こじれる人間関係にもそれらがあるということである。 

 さらにゲームはそれをする人たちが必要である。つまりプレイヤーの存在がなければならない。まずゲームを仕掛けてくる人がいる。僕はこの人を「仕掛け人」と呼ぶことにしている。 

 そしてその他の「参加者」たちがいる。参加者は一人の場合もあれば複数人の場合もある。ゲーム風に言えば、2Pゲームとかソーシャルゲームということになるか。 

 参加者たちには役割を振り当てることができる。「カモ」、「(仕掛け人側の)援助者ないしは(ゲームの)促進者」、「(巻き込まれた)被害者」などなどがあるだろう。 

 

 さて、ここでは「はい、でも」ゲームを取り上げるのだけれど、僕はこれの亜流として「え~、でも~」ゲームもありうると考えている。それも、ここでは僕の考えているところのものを綴ることになる。 

 では、それはどのようなゲームだろうか。展開を見てみよう。 

 

 まず、このゲームは仕掛け人が参加者に助言や意見を求めるという形で始まる。 

 仕掛け人「○○のことなんだけれど、どうしたらいいと思う?」 

 参加者「Aしてみれば」 

 仕掛け人「はい、でも…××だから無理です」又は「え~、でも~…」 

 参加者「じゃあ、Bにしてみる?」 

 仕掛け人「はい、でも…××だからそれも無理です」又は「え~、でも~…」 

 参加者「それならCはどうかしら」 

 仕掛け人「はい、でも…それも無理です」又は「え~、でも~…」 

 と、まあ、こんな感じで続く。 

 参加者は持ち弾を打ち切って弾切れになる。そこで方針を変える。 

 参加者「それじゃあ、君の考えを聞かせて?」 

 仕掛け人「はい、でも…これこれだから言えません」又は「え~、でも~」 

 どんな方面からアプローチしても、「はい、でも…(否定)」、「え~でも~…(ウヤムヤ)」で返されてしまう。 

 参加者は耐えられなくなる。最悪の結末は参加者がキレることである。「はい、でも」型の仕掛け人はこの結末に満足する。「え~、でも~」型はこの結末をある意味で利用する。 

 

 と、まあ、このゲームはこんな風に展開するわけだ。 

 このゲームは、基本的には、仕掛け人と参加者の2Pゲームである。 

 たまにその場にいない第三者の存在が認められる場合がある。たとえば「あの人(仕掛け人)が困ってるようだから相談にのってやってくれ」とか「あの人がなにか訊きたいことがあるって言ってたから一度会ってやってくれ」などと参加者に頼む人である。この人物はゲームに直接参加しているわけではないけれど、結果的に仕掛け人の援助者、ゲームの促進者の役割を担っていることになる。 

 この促進者は、あまり確かなことはいえないけれど、仕掛け人に辟易した経験のある人であることも結構あるのではないかと僕は思っている。仕掛け人のゲームが手に負えないので、それでいて仕掛け人のことを放っておくわけにもいかないので、他の人(参加者)に委託することになってしまうのかもしれない、と僕は思うわけだ。 

 

 さて、「はい、でも」ゲームから考えよう。 

 このゲームでは、参加者が何か言っても、仕掛け人は「はい」と応じてから、「でも」と反対するわけである。一度イエスと言っておいて、次にノーが来るわけである。このノーが明確に表されるか否かで「はい、でも」か「え~、でも~」かが分かれる。 

 そのことは後に述べるとして、「はい、でも」ゲームでは、参加者の言うことに対して仕掛け人の拒否が何らかの形で示される。それは言葉によるものであったり、態度によるものであったりするが、要は参加者の言葉を受け入れないのである。 

 従って、このゲームの無意識的動機は「私はあなたの言うことには絶対に従いませんよ」というものとなる。 

 だから(と言っていいのか)、仕掛け人は自分より「上位」の人を参加者として選ぶ傾向があると僕は感じている。仕掛け人よりも、立場的に上であるとか、権威があるとか、成功しているとか、そういう意味で何らかの形で仕掛け人よりも上位の人が選ばれるわけである。横並びの関係、例えば友人であっても、仕掛け人にとって「上位」に見えている人はこのゲームを仕掛けられる可能性があるわけだ。 

 そして、上位の人を打ち負かすことがこのゲームの結末になる。だから参加者がキレるというのは、ある意味では、仕掛け人の勝ちになるのである。上位の人がお手上げになることが仕掛け人の勝利をもたらすことになるわけである。 

 

 もう一つの「え~、でも~」型は、「はい、でも」ほど否定とか拒否の要素を含まないものである。むしろ優柔不断さが前面に出ている。 

 「え~、でも~」の仕掛け人の無意識的動機は相手(参加者)を自分につなぎ留めておくことにあると僕は考えている。つまり、何か相談を持ち掛けて、「それならこうしてみたら」などと助言を受けて、「じゃあ、そうする」と言ってしまうと、相手はそれで一件落着とばかりに仕掛け人との関係を打ち切ってしまう。この関係が打ち切られるという場面を仕掛け人はできるだけ避けたいわけである。だから、ごねたりして関係をずるずると引き伸ばし、相手を自分の手元に引き留めるわけである。 

 だから(と言っていいかどうか)、「え~、でも~」ゲームの仕掛け人は、あまり人からじっくり付き合ってもらった経験に乏しかったり、関係性を一方的に切られたり、そういう経験をしてきた人が多いように僕は感じている。 

 従って、「はい、でも」のように反論とかはしないのである。「え~、でも~」は「行かないで~、少しでも一緒にいて~」というニュアンスが濃いわけである。 

 しかしながら、だからと言って「え~でも~」ゲームの方が穏やかであるとも言えないのである。ゲームを仕掛けられた参加者は、「はい、でも」では明確な対抗感情を持つことができる(つまり、ハッキリした嫌悪感とか怒りなど)のに対して、「え~、でも~」では参加者の中に不明確でモヤモヤした感情を残すことがある。 

 どういう体験をするかは参加者によって異なるだろうと思う。僕は自分が占領されていく感覚を覚える。この人(仕掛け人)に雁字搦めにされてしまうような、そういう拘束感というか、そういう感じである。ある人(この人の話からこのテーマを書くことになったのだけれど)は、これまでの時間を返せなどと憤慨していたけれど、この言葉はそれだけ仕掛け人に独占されていたことを表していないだろうか。 

 従って、「え~、でも~」ゲームのもう一つの無意識的動機は、相手を独り占めしたいというものである。相手をつなぎとめておきたいだけでなく、その相手を独占したいということでもある。なので、「え~、でも~」ゲームの仕掛け人はその他の場面でも貪欲であることもある。何でも欲しがるとか、どんな場面でも自分を優先してほしがるとか、どこか欲張りであったりする。 

 そのことを踏まえると「え~、でも~」ゲームはけっこう厄介なところがある。というのは、「はい、でも」ほど結末が明確にならないからである。ある意味では、仕掛け人が満足したところで終わりということになる。相手を自分につなぎとめておいて、それで自分が満足できた時点で、相手を解放できるということになるわけである。それでいて、仕掛け人は貪欲に満足をむさぼったり、なかなか満足しないということになれば、このゲームを仕掛けられるのがどれほど厄介なことであるか理解してもらえるだろうと思う。 

 「え~、でも~」ゲームの仕掛け人は、けっこうな確率で、他の人から好かれていなかったりする。仕掛け人自身も自分は好かれないとか、友達がいないとか、みんな私を見放していくとか言っていることがる。つまり、人はどれだけ自分に冷たい仕打ちをするかということを示すのである。「え~、でも~」ゲームで参加者がキレたりすると、この結末が仕掛け人のその確信(人は自分に冷たいという確信)を支持するために利用されてしまうこともある。 

 

 どちらのゲームもこちらがキレたら負けである。別にこのゲームで負けてもこちらに直接的な被害はないので、負けても全然かまわないことではあるが。 

 このゲームの文脈から抜け出ようとすれば、いくつかの方策があるのだけれど、例えば、「今ここ」における仕掛け人の感情を取り上げることもできる。例えば、「私は今あなたにいろいろ言ってきたけど、あなたはどんな気持ちになるの」とか、「今の私の話を聴いてどう感じましたか」などと問うわけだ。この時、「どう思う」という尋ね方をしないことである。この尋ね方は仕掛け人の「思考」を引き出すことになるからである。 

 また、こちらが自己開示することもできる。例えば、「あなたにいろいろ助言してきたけれど、なんかこういう気持ちに私はなってきたよ」などと自己開示するわけである。そして、どうして自分がこういう気持ちになったのか、仕掛け人に問いかけてみることもできる。つまり、逆に助言や意見を求めることになる。どういう方向に進むとしても、要するに、仕掛け人の文脈というか、仕掛け人が最初に仕掛けてきた内容(助言や意見を求められている事柄)から離れることである。 

 何をやっても上手く行かない場合は、少し考えさせてほしいなどと言って「時間稼ぎ」をすること(つまりその場に留まらないこと)である。すこし考える時間がほしいとか、調べる時間がほしいとか、君の話を少し整理したいから待ってほしいとか、そんなことを適当に(本当にテキトーでいい)言って、その場を終えることである。それでは納得しないと仕掛け人が粘っても、こちらは頑なに「待て」と言い続ける(これはこのゲームで仕掛け人より上位に立っていることになる)のである。 

 また、事前に時間を制限しておいてもいい。カウンセラーはこの点で恵まれている。時間が来たら終了に持っていけるからである。結論が出ていようといまいと、時間が来たので今日は終わりましょうと言えるわけである。なので、最初から時間を決めておく、こちらから「30分くらいならいいですよ」などと決めておくのも有効である。 

 もっとも簡単な解決は、こちらが参加者の立場から促進者の立場に変わることである。つまり、私はお手上げだから他の人(あるいは特定の誰か)に相談してみれば、と仕掛け人に勧めるのである。こうして自分以外の誰かを仕掛け人の標的にしてしまうのである。いささか意地悪な方法ではあるが、それでも有効なことがある。 

 その他にもさまざまな方策があるだろう。時間制限は別として、では、どのタイミングでそういうことをしたらいいのか、それは簡単である。こちらがイライラし始めた時にすればいいのである。イライラしているのに、それを抑えて、仕掛け人の求めるものを与えようとすることは、仕掛け人の仕掛けにすでに過剰に乗っかってしまっていることになるのである。 

 もう少し突っ込んだ言い方をすれば、こちらがイライラし始めている時には、すでに相手の「病理」が現れているのである。だから、それ以上仕掛け人の病理を噴出させないためにも、このゲームは打ち切った方が、結果的には、仕掛け人のためにもなるというものである。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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