<#007-22>臨床日誌~成果主義・結果主義
ある人は仕事で成果なり結果なりを出せば上に上がれると意気込む。またある人は結果を出せと追い詰められる。クライアントにはどちらのタイプの人もあるが、比較的後者の方が多いだろうか。いずれにしても、日本社会も徐々に成果主義・結果主義が浸透してきているように僕は感じる。
成果主義・結果主義でもっとも尊重されるのは現実である。事実であると言ってもいい。日本が成果主義・結果主義になっていくと仮定して、その日本社会で生きていくというのであれば、私たちは現実感覚をしっかり持っていなければならない。それが今回の論旨である。
もし、僕が一つの仕事をして、僕はそれを成功だと見做しているけれど、周囲はそれを失敗であると評価する時、僕は自分の成功とみなしている部分が見えているだけでなく、周囲が何をもって失敗と評価しているのかも見えていなければならない。
また、それとは逆に、僕の中では不満の残る仕事であったとしても、周囲はそれでいいと評価しているとしよう。その場合でも同じように両方が見えていなければならないのだ。周囲は何をもってそれでいいと評価しているのかもきちんと見えていなくてはならない。
そういう意味で現実感覚ということが重要になるわけだ。
今年(注:これは2021年に書いたものである)、政府は五輪を開催した。開催したというそれ自体は結果でも成果でもない。開催したことによってどのような成果があったのかが問われないといけないのだ。
当初、開催すると、日本が盛り上がって、経済効果が上がると望まれていた。この場合、成果や結果はその部分で評価されることになる。現実にどの程度盛り上がったのか、どれくらいの経済効果があったのか、その事実だけが重要なのだ。
この例では、開催することそれ自体は結果でも成果でもないのだ。そこを見誤ってはいけない。開催したことによって得られた成果、あるいは得られなかった成果だけが評価の対象となるのだ。
ある仕事で成果をだそうとすれば、当然のことながら、その仕事に時間をかけなければならなくなる。企業人の辛いところは、時間をかけずに成果を出せと求められるところであろう。残業してでもやりたいところを残業をするなと命令されるのだからどうしたらよいのか途方に暮れるというものだ。
仮に、サービス残業して成果を出して、それが十分にボーナス等で補償されればいいのだけれど、後から補償されるというのは不確実なものである。企業人の意欲も低下してしまうかもしれない。
少し余談であるが、時間が十分に与えられず、それでいて成果を求められるという状況では、試行錯誤する余裕もないわけであり、どうしても出来あいの思想や方法に頼ってしまうことになる。そうなるとだんだんと物事を考えることのできない企業人が増えてくるのではないかと僕は危惧している、実際、その徴候が現れているようにも僕は感じている。限られた時間で十分な成果を出すためには、あまりにも合理的でなければならず、すでに有るものを活用するしかなくなるからである。創造の余裕が失われるのである。
成果主義・結果主義にはかように厳しい側面があり、あまり好ましくない側面もある。この主義においては、個人の感情は度外視されなければならない。その仕事のために個人がどれだけ努力しようと、どれだけ思い入れを持っていようと、どれだけ自己評価しようと、それは関係がないのである。事実として現れた成果だけが評価されるからである。
仕事に個人的感情を持ち込む人は成果主義の世界では生きていけないのである。一緒に仕事をする人が不愉快であっても、その仕事をやり通せたら良しと評価され、頓挫したら失敗と評価されるのである。どれだけその相手が不愉快な人間であるかを周囲に訴えても通用しないのである。
チームで仕事をする場合、チーム構成員個々人の能力の有無よりも、足を引っ張る人間が一番嫌悪されることになる。この人がいるおかげで遅れてしまうとか、そういう人が一番忌避されるわけだ。足を引っ張ってしまうというのは、その人があまりに個人的な感情を仕事に持ち込むからである。
従って、成果主義・結果主義の社会では、現実感覚が優れていることに加えて、感情を持ち込まない人、感情の抑圧がしっかりできている人が求められることになる。その上で、最短時間で所期の目的を達成できる合理性が求められることになる。僕はそんなふうに思うのだ。そして、そういう人は自己を非人格化しなければならなくなる。いわば機械のようにならなければならなくなると僕は思う。
もちろん、個々の仕事現場はそこまで非人間的要素に満ち溢れているわけではないだろう。僕は幾分強調して言っているので、読んでいる人には非常に殺風景な世界が思い描かれただろうと思う。しかし、日本が不景気になり、企業が厳しくなればなるほど、そこで働く人間は自分を非人格化しなければならなくなってくると僕は思う。
極端な成果主義社会とは、その成果を出した人間よりも、その成果の方が大切にされる社会であるかもしれない。そこまで極端には向かわないとしても、今の日本社会は人間主義社会からは遠ざかっているような印象を僕は受ける。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)