<#007-21>臨床日誌~現実逃避論

 

(現実逃避論―前編)

 現実逃避ということについて僕の考えるところのものを述べようと思う。まずは一人の女性クライアントに登場してもらおう。このケースは、現実のクライアントのエピソードに幾分アレンジを加えているけれど、この種の話(自分ある行為指してそれが現実逃避であったのではないかと心配されるなど)はよく耳にするものである。 

 

 この女性は会社員である。ちょうど仕事の繁忙期に差し掛かっていて非常に忙しい日々を送っている。平日は職場で仕事をし、時には残業をすることもある。土日はお休みである。 

 ある時、彼女は土日を利用して一泊二日の旅行に行った。旅行それ自体は楽しいものであった。月曜日から再び出勤するが、最初の二日くらいはまだ旅行の余韻を引きずっていた。水曜日辺りから彼女の日常に戻った感じである。 

 そしてその週末、彼女がカウンセリングを受けに来ると、彼女はこの旅行は現実逃避だったのではないかと心配していると言う。繁忙期で忙しい時期なのに自分は遊んでしまったといった罪悪感を抱いているようだ。 

 さて、彼女は、旅行を楽しんだのに、それを現実逃避したのではないかと解釈している。本当は現実逃避ということよりも、なぜ楽しい経験をした後に罪悪感をもつようになるのかということが彼女にとっても本質的なテーマになるのであるが、それは別のテーマになるのでここでは取り上げないでおこう。 

 ここでは、より周辺的な話になっている部分であるが、彼女のその行為が現実逃避であると言えるのかどうかという点だけを取り上げたいと思う。 

 

 ある人のある行為が現実逃避であるか否かをどのようにして評価したらいいであろうか。僕は複数の観点から眺める必要があると思う。その観点をこれから述べていくことになる。 

 

 ①現実逃避と評価できるためには、その人が現実に直面しない、あるいは現実に取り組まなければならないことに取り組んでいないといった点が見出せるかどうかを考える必要があると思う。 

 この女性の場合、仕事の繁忙期があって、平日はそれに取り組んでいるわけなので、この①の条件には該当しないと言えそうである。 

 この条件を満たす人もいる。例えば、試験前になっていて、その試験勉強をすることが求められているのに、それをせず、他のことばかりやってる受験生などである。本当は現実としてそれに取り組まなければならないのに、それに取り組まず、別のことを一生懸命やっていたりするわけだ。 

 クライアントの中にもこういうことをする人がいるのは確かである。自称AC者の中にはそういう人もけっこう見られる。本当は今はそんなことに取り組んでいる時ではないはずなのに、親とか児童期のこととかに没頭してしまっているのだ。ひきこもっているような人の中にも見られるように思う。 

 

 ②現実逃避という場合、どちらかと言うとこちらがより本質的であると僕は思うのだが、逃避先から戻ってこないという傾向が見られることである。 

 本当の現実逃避とはそういうもので、現在の現実から逃れることではなく、むしろそこから現実に戻らなくなることである。それまでの現実に戻ることを放棄するわけであり、これが現実逃避という現象の本質であると僕は考えている。 

 この女性の場合はどうか。二日ほど旅行の余韻を残しているとは言え、彼女は旅行から帰ってきて、それまでの現実の生活に戻っていることがわかる。従って、②の観点から見ても彼女の行為は現実逃避とは評価できないということになる。旅行して、その旅先から帰ってこなくなったというのであれば別であるが、彼女はそういうことをしていないのである。 

 クライアントの中には②の条件を満たしている人もある。 

 例えば、夫と不仲になり、家出して、実家に帰った妻がいる。一か月で夫の元に戻ると約束したのに、一か月を過ぎても夫の元に戻らず、そのまま実家暮らしをして、ほとんどそのまま離婚に至ったというケースも僕は経験している。この妻の行動は逃避的と評価されるものである、と僕は考えている。妻が逃避的になればなるほど、夫婦をやり直したいと願う夫(こちらが僕のクライアントだった)の願いは、その実現の可能性が低下するのである。夫がもっとも苦しむ形で妻は自分の行動を選択したことになるとも言える。 

 また、病気で休職中だったある男性は、休職期間をズルズルと引き延ばし、結果的に職場復帰を果たさずに辞職した。正直に申せば、僕から見てこの人はあまりにも治療に不真面目であった。休職期間中も、本当は静養していなければならないのに、遊びに行ったりしていたのである。そして、不登校の児童なんかに見られるように、復帰時期が近づくと病状が悪化するのである。僕には彼がなんとしても職場復帰したくないという気持ちが伝わってくるのだ。彼は復帰することから逃避しているということになるわけだ。 

 もし、この人たちがそれほど逃避的でないとすれば、一人目の妻は一か月の別居後に夫の元に一旦は戻ったであろう。たとえその後に離婚することになったとしても、一旦は彼女の現実に戻ったであろうと思う。 

 二人目の男性会社員の場合でも、休職期間を終えると一旦は職場に復帰するであろう。仮に医師の診断によっては休職期間が延長されたとしても、この人は元の職場にいずれは復帰するであろう。 

 ②の観点に立てば、一旦は現実戻るのであるから、逃避とはみなさないということになる。でも、人によってはそれでも逃避になると考える人もあることと思う。それは次の観点にすでに足を踏み入れていることになっているのだけれど、そのように考える人は逃避と退却とを区別しておられないのである。 

 

現実逃避論後編 

 ある人の行動(あるいは自分の行動)が、現実逃避であるか否かをどのように評価できるだろうか。複数の観点から考えることが必要であり、ここまでは二つの観点を取り上げた。 

 ①現実に取り組まないこと 

 ②現実に戻ってこないこと 

 の二つの観点を述べたのであるが、一般的に①を現実逃避と見做す傾向が強いように僕は思うのだけれど、現実逃避ということの本質は②にあると僕は考えている。 

 ①であれ②であれ、評価が分かれるような例がある。その場合、逃避と退却とを区別していないように僕は思う。 

 

 ③逃避と退却の区別 

 退却などという言葉は軍隊用語でもある。逃避と退却のニュアンスの違いをまずは押さえておこう。 

 例えば、戦の場面があるとしよう。こちらの形成が不利であり、苦戦している。そこで隊長が「引けー」と号令をかけたりする。戦場から一旦引き下がって、体勢を立て直そうと試みたりするわけだ。これは退却に該当する。 

 一方、戦の場面で、これは勝ち目がないということになって、「逃げろー」ということになる。これは逃避(逃亡)ということになる。この場合、もはや戦には戻らないことを前提としている。 

 逃避と退却のニュアンスの違いを汲み取っていただけるだろうか。逃避には「放棄」のニュアンスが色濃いのであるが、退却にはその要素が(本来は)無く、一時的に引き下がるのである。 

 一つ付け加えておきたいのは、逃避と退却のニュアンスの違いを読み取って欲しいということが主眼であって、どちらが良いとか悪いとかいう話ではないということに注意していただきたいと思う。 

 前項の冒頭の女性、土日の休みを利用して、繁忙期にも関わらず旅行に行ってしまったという女性のケースを見てみよう。彼女は繁忙期で日々忙しい状態にあった。そこで一旦仕事から離れて、再び仕事に戻ろうということであれば、そして実際にそうしているのであれば、彼女の旅行は、逃避よりも、退却のニュアンスが濃厚である。しんどい現状から、彼女は逃避したのではなく、一時的に退却したとみなすことができるわけである。 

 根詰めて仕事をしていた社長が、ある日、ドンとデスクを叩いて、「今日はもう止め、みんな飲みに行くぞ」などと部下を率いて飲みに行ったとしよう。この段階では、彼の行為が逃避であるか退却であるかはまだ決定できないのである。一晩、仕事を忘れ、憂さ晴らしをし、翌日から平常通りに仕事に取り組んだということであれば、前夜のことは退却と考えていいわけである。 

 結局のところ、退却という観点を取り入れることは、②を補足するものである。一旦現実から離れて、そこから現実に戻ってこなくなれば逃避となってしまうが、現実に戻るのであれば、それは一時的な退却と考えてよいだろうということである。 

 

④現実に生きる人の現実逃避は現実的であり、自己放棄とは区別できるものである。 

 さて、ここからこの女性の例から離れてしまうのだけれど、現実に生きている人が現実逃避をする場合、その逃避もまた現実的であると僕は考えている。現実的に生きている人の現実逃避は現実に根差しており、現実のその人からかけ離れることなく、現実的な形をとるものである。 

 もし、現実逃避として非現実の世界に逃げ込む人があるとすれば、その人は普段から現実の世界に生きていない人であるかもしれない。 

 僕がこれを考える契機になったのは、ドラッグに手を出す若者のインタビューからだった。彼は現実逃避をするためにドラッグに手を染めたと言うのだけど、それは現実逃避ではなく、むしろ自己放棄と言えるものだと僕は思った。現実世界に生きていない人の現実逃避は非現実的な形を採るものだと思った。 

 ちなみに冒頭の女性の行為はどうであっただろうか。彼女は少しでも非現実の世界に逃げ込んだと言えるだろうか、自己放棄とみなすことのできる言動があっただろうか。僕にはそのようには見えない。従って、少なくとも僕の評価では、彼女はこの種の逃避もしていないことになる。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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