<#007-19>臨床日誌~同調
緊急事態宣言解除から一週間(注・2021年10月7日に書いている)。僕の方はと言えば、緊急事態宣言中と同じ生活を続けている。お店でお酒を飲むということもやっていない。旅行やなんかは昔からあまり行かない方だから問題ないか。
感染者数の数よりも、治療法、できれば治療薬がしっかり完成するまで、さらにはそれが普及するまで、僕は宣言下の生活を維持するつもりだ。コロナが怖いからそうするだけだ。
最近、同調という言葉を聞く機会が増えたような気がする。同調圧力とか、そんなことが言われるわけだ。みんながそうしているから自分もそうしなくてはいけないような気持ちに襲われるということであるらしい。これが同調となるのかどうかは不明だ。圧力なのかどうかも僕には分からない。
同調というのは、僕の考えているところでは、あるいは僕が理解しているところでは次のようなものである。例えば、全員が右に行く。自分もつられて右に行く。これは同調である。全員が右に行くけど、自分は左に行く。実はこれも同調だと僕は思う。ある人のある行為が同調行為であるか否かは、周囲の動きとは関係がないと思っている。つまり、同調というのは心の中の出来事なので、外的な基準では判断できないものであると思っているわけだ。
みんなが右へ行く。それとは別に自分の考えや意志でもって自分は右へ行く。これは、外見的には同調行為に見えるけれど、実際は同調しているのではないのだ。みんなが右へ行く、それなら自分は左へ行く、左へ行くという考えや意志がしっかり持っていないなら、それは同調である。
一部の反抗は同調である。自分は相手に反抗しているつもりでも、よくよく見ると、それは相手に同調しているだけであったりしている。そういうこともよくわるわけだ。AC者が毒親に毒づいている時、案外その毒親に同調しているだけということもよくあるのだ。自分ではそれが同調と気づいていないのだな。相手に対してやっていることなのに、それが相手の調子と一致していたりするわけだ。
しかしながら、人間が社会的に生きている以上、同調要素は至る所に見ることが可能である。
例えば、ルネ・ジラールの欲望の三角構図などにも同調要素を認めることができる。欲望する主体は欲望する対象を欲望しているつもりであっても、そこには欲望の仲介者の存在があり、見ようによっては主体はこの仲介者に同調してしまっているとも言えるのだ。ジラールによれば、現代社会ではこの三角構図が見られない状況はないとのことであるので、人が何かを欲求する時でさえすでに同調性を認めることができるのではないかという気がする。ジラールの時代ですでにそうであったのだから、現在はそれがもっと進んでいるかもしれない。
さて、これに関して特に結論もないのだけれど、結局のところ、人間のあらゆる行為には同調要素を認めることができるのだから、同調性を完全に排除してしまうともはや人は生きていけなくなるのではないかとも思ってしまう。それでも、自分の行為や判断、思考などに同調性が含まれていることを認める方が、自分は同調していないと信じている人よりもましである。後者はちょっと危険だ。(2021年10月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)