<#007-13>臨床日誌~労働の断絶
今の政府は無能だの、首相がボンクラだのポンコツだの、いろんなことが言われている。別に政府や政治家を弁護するつもりはない。むしろ、そうした批評は正しいとさえ僕は考えている。しかし、今の政府に見られる問題は、政府だけの問題ではなく、現代のわれわれの問題でもある。言い換えれば日本の病理がそこに現れているというふうに僕は見ている。
今の政府のような、例えば危機対応の遅さ、拙さ、対策の不公平さとか稚拙さといった諸問題は、他の企業なんかでも見られないわけではない。シチュエーションは違えど、同じような問題が会社内でも起きていたりする。いや、会社だけでなく、学校やその他の団体においても見られることがある。一部のクライアントたちはそのことを僕に教えてくれるのだ。
この問題は、突き詰めて考えていくと、個人(労働者)と彼の労働との間の断絶に行き着くと僕は考えている。この問題もとことん突き詰めていけば産業革命にまで行き着くだろうけれど、今日はそこまで遡らないことにしよう。
1960年代頃から「疎外」という形でこの問題が取り上げられるようになった。分業と機械化が進み、労働者が労働から疎外されることが問題となった。つまり、仕事をするのは機械で、人間は機械を操作するだけの役割になってしまい、それによって仕事と個人の間に断絶が生まれることになり、人間が(機械によって)仕事から疎外されるという事態に陥っていたわけだ。
これを単純に定式化するとこうなると思う。人間は対象と関わることで自己の意味を見いだすこと、対象の意味を見いだすことができていた。人間と対象との間に仲介物が割り込んでくることで人間と対象との間に断絶が生まれる。この断絶によって、人間は対象から疎外されることになり、自己の意味、対象の意味を見いだせなくなる、ということになろうか。
中間に介在してくるものはかつては機械であったが、今ではそこにコンピューターが加わる。また、介在してくるものは、組織とか機構とか伝統とかいう場合もある。とにかく、個人と個人のかかわる対象との間に何かが割り込んでくることによって、個人は対象と切り離されてしまう。
少し話が逸れるけれど、自尊心とか自己効力感とかいった言葉を僕はあまり使わない。それらは親子関係で身につくと考えられており、自尊心が低い人は親子関係に問題があったのではないかとすぐに疑うような専門家たちもあるが、僕は賛成しない。それはあまりにも図式的すぎるし、早急すぎる。むしろ、自尊心を育てる社会ではないことの方が僕には問題に思えている。
少なくとも、労働はその人の自尊心につながりにくくなっていると僕は感じている。個人が仕事から疎外されているからである。仕事をすればするほど、その人は仕事から疎外されていくのである。仕事をすればするほど、その仕事を自分がやったという感覚を持てなくなってしまうのだ。「うつ病」が増えるのも当然である。
一方、労働から自尊心を得ることができないということになれば、わずかばかりの自尊心を維持するために権力を求めることもあると思う。権力にしがみつくことによって、自分が重要な人間であるという感覚を持つことができるというわけだ。このような人にとっては、自分が何を成し遂げるかよりも、自分がどの地位についているかの方が大事になるだろうと思う。ここからはパワハラのような問題が生まれる。自尊心を脅かす存在は潰さなければならなくなるからである。
また、一部の人たちはこの疎外環境から撤退する。脱サラして起業する人もあれば、そのままひきこもりのようになってしまう人もある。かつては脱サラして起業するというパターンがブームだったこともあったが、現在はひきこもってしまう人の方が多いかもしれない。
多くの人は、労働での疎外から自分を取り戻すために労働以外の活動にひたすら従事する。酒やギャンブルに走るというわけだ。かつて「5時から男」などという言葉もあったけれど、勤務時間が終了した途端に活き活きし始めるわけだが、ある意味で、そこでようやく自分自身になることができているのだ。もし、仕事から疎外されていなければ、一日の労働を終え、憩いの場である家庭に戻るのが普通のことなのであるが、このような人たちの場合、憩いの場を犠牲にしてでもそれ(自分自身になること)をしなければならなくなっていることになる。見た目とは裏腹に、彼らは決して愉快な人たちではないのである。
もっとも、多角的な視点をもたなければならない。個人の抱える問題は、親子関係や発達的観点だけでなく、社会的観点からも見なければならない。肝心なことはどれか一つを原因と決めてしまわないことだ。人はあらゆる影響を受けるものだからである。今日、僕が述べているのはある一つの観点に立ったものであることを強調しておこう。
コロナ対策では、政府は「やってる感」だけを演出しているかのように言われる。確かにその通りである。でも、なぜ「やってる感」を打ち出すことしかできないのか。それは政治家が政治の仕事から疎外されているからではないだろうか。政治家(主体)が政治(対象)に直接かつ主体的に関わることがなくなっているのではないだろうか。対象に対して遠隔的になるからこそ、周囲には「やってる感」としてそれが映るのではないだろうか。彼らは疎外された人間なのだ。
では、その主体と対象との間に何が介在しているのか。僕は明確にはできないけれど、政治的な機構、システムとか構造とかがあるのではないかと思っている。だから政権交代しても、新しい政権も前の政権と同じようなものになるだろうと思っている、というか、そう決めてかかっている。「これをやります。責任はすべて私が取ります」、かつての政治家はこういうことも言えたのであるが、それはその政治家と政治との間に断絶が無いから言えたことなのかもしれない。
僕は自分自身と仕事との間に介在物を持ち込みたくないと考えている。仕事から疎外されたくないと思っている。だから「子供の治療をしてほしい」と頼まれれば、「そう言う親が受けに来なさい」と言うのだ。僕の仕事にこの親が介在してくることによって、この子との仕事において僕が疎外されたくないからである。結果的に、それはそれでいいこともあるけれど、儲けにはならない。生活は苦しいものだ。でも、後悔はしない。疎外された人間であるよりはましだと思っている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)