<#007-8>臨床日誌(8)~統合失調症か?
今日は新規のクライアントとお会いした。僕にはこの人が統合失調症に見えて仕方がない。僕の中でずっと不安を残している。あまりこの人の個人的な事柄に踏み込まない範囲で述べようと思う。
この人は、まず、仕事が向いていないという訴えをされた。この場合、二つの可能性がある。一つはその仕事が以前よりも過酷になっていたり、状況が悪くなっているという可能性だ。これは、いわば、当人はそのままで周囲が悪くなっているということになる。もう一つの可能性は当人が以前よりも悪くなっていて、以前なら適応できていたことに適応できなくなっているといった可能性だ。こちらは周囲がそのままで当人が悪くなっていると言えようか。
このどちらかを見極めたいと思うのだ。できれば前者であってほしいと僕としては願うのだけれど、この人から出てくる話は後者の可能性を高めるものばかりだ。
もし、周囲が悪くなって、この人がそのままであるとするなら、この人はその環境以外ではあまり以前と変わらないはずである。つまり、仕事以外の生活領域では以前とあまり変わらないであろうということである。
一方、当人が悪くなって、環境等はそのままであるとすれば、この人は他の生活領域でも困難を示すはずである。かつてはなんの苦もなくできていたことができなくなってきたり、かつては気にすることもなかった人間関係が苦になってきたりといったことが起きているはずである。この人自身が悪くなっているのだから、この人が身を置くあらゆる環境で困難を経験してしまうことになるわけだ。
このクライアントの話を聞いていると、どうしてもこの人自身が悪くなっているようにしか思えなくなってくる。この悪化を防ぐには、逆説的であるけれど、この人が辞めたいと思っている仕事に身を置いている方がよい。急激に生活を変えない方がよいということになる。
このクライアントには、幾分妄想的な色彩をもつ強迫観念があり、それは恐怖症の体裁を保っているのだけれど、これは仕事によってもたらされているものとされている。この恐怖症は、それがあることによって、発病を防いでくれているのかもしれない。いわゆる防衛機制としてこのような恐怖症のようなものが生まれているということだ。これを取り去ることを今はしたくない。先に治療に入ってからである。
ところで、僕はクライアントがあまりにも「病気」に見えてしまう時、そのクライアントのあらゆる所に「症状」とか「病理」が見えてしまう場合、僕は自分の方が間違っていると仮定する。この時、頼みの綱になるのが録音である。もう一度クライアントの話を聞き直して、確かに「病気」が見えるかどうかを確かめてみたいのである。ところが、このクライアントは録音を消去させた。僕は別に構わないのであるけれど、結局、この人は自分に不利なことをしてしまったのである。いっときの感情で判断してしまったのだと思う。
僕としては、この人は統合失調症であるという結論に達している。もしくはその傾向の人格障害である。そういう病理圏内にある人であると見立てている。もう一回、僕のその見立てを検証してみたかったが、もうダメだ。
ところで、僕はその人が統合失調症であってもいいと思っている。それだけの経験をしているからである。それにこの人は若いのできっちり治療を受ければ回復する可能性も高い。僕はこの人に病院を受診するようには伝えた。おそらく投薬を受けるだろうけれど、それで一度自分の態勢を整える方がよいと僕は思う。そして、状態を整えて、治療に励み、将来のことも考えて行けばいいことである。
もう一つ、余計なことを言うと、この人が精神病であることは、この人の母親が望んでいたことだ。この人は母親の期待に沿っていることになるのだ。だから、母親の呪縛から解放されたければ、この人はこの病をきっちり治療することなのだ。治ることなのだ。治らない人のままでいれば、それこそ母親の望む通りの生き方を送ることになる。
今後、この人がまた会うというのであれば、僕は面接をする。ただ、もうこの人は来ないだろうという気もしている。この人は自分の感情だけで評価するだろうと思う。それはともかくとして、来ない人のことであれこれ考えるのも止めておこう。僕には僕が受け持っている人たちもいる。その人たちのために生きよう。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)