<#007-7>臨床日誌(7)~不愉快な仕事をすること

 

 一時期に比べたら仕事は激減しているが、細々とでも仕事が入るのはありがたいことである。僕は僕にできることをやっていくし、僕に求められることをやっていこう。成功不成功もまったく意に介さない。やることになっているからやるまでである。

 今日のクライアントの話にそれが通じる。クライアント個人のことは触れないでおこう。その人は今日は仕事のことを話された。この人にとって非常に不愉快な仕事をしなければならないという状況にこの人は置かれているのだ。

 仕事をする時、人によってはやりがいであるとか、あるいは楽しみとか興味とかを重視することもあると思う。僕はそれ自体には反対ではない。仕事をするならやりがいを感じられるものの方がいいだろうし、興味を持っている分野である方がいいし、やっていて多少の楽しみもないと辛いだろうとも思う。まったく感情を無視するわけではない。

 でも、時に人は自分の感情抜きで仕事をしなければならないこともある。恐らくだけれど、どの職種の人でもそういう場面を経験するものであると思う。純粋に義務感だけでする仕事とかもあると思う。感情抜きばかりの仕事をしなければならない人も辛いだろうけれど、感情抜きでできない人もまた辛かろうと思う。いちいち感情的に巻き込まれてしまうからだ。

 僕のところにくるクライアントの中にはお医者さんもおられる。お医者さんとお会いすると、いかに彼らが自分の個人的感情抜きで仕事をしているのかがよく分かる。そうでなければできない仕事なのだろう。問題はそれを私生活でもやってしまうことである。僕がお会いした人ではそういう人が目立ったように思う。

 

 他によくあるパターンとしては、お金のために割り切るとか、上から命令されたからやるだけというふうな割り切り方をする人がある。時にはこういうふうに割り切らなければならない場合もあるだろう。このやり方は不愉快な仕事をすることに対して、一時の安定を当人にもたらすことだってあるだろう。しかし、割り切ってばかりではやはりキツくなるだろう。

 

 もう少し穏やかなやり方としては、不愉快な仕事を終えたら自分にご褒美を用意するというものがある。この仕事をやり終えたら楽しいことが待っているということは、やはりその不愉快な仕事を処理するというか、やり過ごすことを容易にするだろうと思う。

 時にはそういうことをしなければならない場面もあるだろう。やりたくはないけれど、これをやるといいことが待ち構えていると思えれば、何とか乗り切れそうな気もすることだろう。ある程度のモチベーションを維持することもできるだろう。

 でも、これも常にそれをするわけにもいかない。毎回ご褒美を自分に付与していると、そのご褒美の持つ報酬としての刺激価が低下していくことだろうと思う。つまり、それがもはやご褒美の意味を失うという事態に陥ることになりかねないということである。ご褒美がご褒美の意味を有する限りにおいて有効な対処法だと言えなくもなさそうである。

 

 僕が一番いいと思うのは、できればしたくないと思う不愉快な仕事でもしなければならない時、それが将来何かの役に立つかもしれないと思ってやることだ。それをすると何か自分に身につくとか、自分の糧になるとか、自分の学びになるとか、キャリアになるとか、人生に一つの色どりを添えてくれるとか、自分が一つ成長するとか、あるいは将来話のネタになるとか、そんなことを期待することである。その不愉快な仕事を一つの可能性に昇華してしまうことである。その経験を無駄に終わらせないことである。

 

 感情が優位な人は、仕事においても自分の感情を大切にするかもしれない。やりがいとか充実感とか、効力感とか、確かにそういう感情も大事ではあるけれど、あまりそれを過大評価するのもよろしくないと僕は考えている。好きなことだけやって、イヤな仕事はしないという人は、どんな職種でも大成することはないと思う。そういう人は「使えない」とか「使い勝手が悪い」などという評価を得るものだ。

 

文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

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