<#007-3>臨床日誌(3)~運と判断
女性の中には男運が悪いという人がいる。僕のクライアントにもそういう人がいたし、知人の中にも自らそう言う人がある。彼女たちの話を伺うと、好きになった男が全てろくでなかったりするわけだ。そういう男運が悪いという女性に好かれでもしたら、喜んでいいのやら悲しんでいいのやら複雑である。自分も悪い男運の一人かいなと思ってしまう。
ところで、僕は運とかツキってものがよく分からない。運を信じるか否か以前に、それがどういうものであるかが分かっていないのだから、信じる信じない以前の問題である。信用しようにもそれが曖昧で不明瞭なので、一体何を信じるのかさえ不明である。
運というものは、突き詰めていくと、判断ということに行き着くようだ。運が悪いというのは間違った判断をしたということだ。運が良かったというのは、当人も意図せずに正しい判断をしていたということになる。後になって運が良かったとか悪かったとか人は言うのだけれど、その時そこでどういう判断をしたかを覚えていないこともけっこうあるのではないかと思う。
パチンカーがパチンコに負けで今日は運が悪いと言ったとしよう。パチンコは関係ないのである。今日、パチンコしようと決めたその判断が正しくなかったのである。
間違った判断が悪運を招いてしまう。それがまた次の悪運を招くということも起こり得る。以前よりも悪い状態になればなるほど判断が間違うことも起こりやすくなると思うので、こうして悪運の連鎖が続き、気が付けば悪運のオンパレード状態に陥ってしまうのだろうと僕は思っている。
では、判断とは何か。これは一つの心の働きである。それも高次の心的機能であると僕は思う。
心的機能の高次とか低次とか、それはどういうことか。低次の機能ほど発達的にも進化的にも初期の段階にあるものであり、高次になるほどもっと後に現れてくる機能である。低次機能は比較的単純というか単一であるが、高次になるほど複数の機能が協働することによって機能すると言える。
判断が高次機能であるということは、そこに複数の機能が同時的に協働しているということである。状況の認識、思考、欲求や衝動の認知、過去経験の参照とか未来の予測とかいった時間的展望、自身の感情体験、損得勘定など、同時にいくつもの機能なり作業なりが協働してなされるものである。僕はそのように思うのだ。
心の素晴らしいところは、そうした難しい作業を瞬時にやってのけるところである。そんな風に複数の機能が同時に働き、複雑な作業をこなしているなどと当人に意識されることなく心は遂行しているのだ。
人が判断を要する場面では、しっかりと熟考する機会が得られることもあれば、直観的になされることも多い。むしろ大部分の判断は直観(直感ではないことに注意)である。瞬時に見て取るのである。
では、正しい判断をするにはどうしたらいいかと疑問に思われる人もあろう。判断が複数の心的機能の協働であるならば、それら個々の心的活動が優れていくことに越したことはないが、それでは漠然とし過ぎている。方法の一つは、後で自分の判断を反省してみることである。
しかし、僕は一段話を飛ばしてしまったようだ。まず、自分がどこでどういう判断をしたかということに気づくことである。自分でも知らない間に判断はなされているのである。この段落で僕は話を一段飛ばしてしまったと書いた。これを前段落の前に挿入しても良かったのだが、僕はそうしなかった。これも判断であるが、僕は自分ではそのように判断したことに気づいていなかったのだ。
どこでどういう判断をしたのかに気づくこと。それから個々の判断の正否を反省してみることである。そして、どういう判断をしたら良かったのかを考えてみることである。僕はそれを推奨する。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)