#005-5>病の二相(4)~病との同一視 

 

(病むのは一部分だけであること) 

 病に二つの相があること、また、その二相を認めることができるためには、病が全体の一部に限定されていることが不可欠であります。私はこの点は繰り返し強調したいと思います。 

 病気と言おうと、障害と呼ぼうと、あるいは問題と言っても同じことでありますが、そこで損なわれているのはその人の一部分だけであります。その人はその一部分以外は健常であり普通の人と変わらないのであります。 

 身体を例にするとよく分かるでしょう。身体的な疾病は、その身体部位に病気が起きているということを意味しています。その患部以外の身体器官は損なわれているわけではなく、正常に機能しています。場合によっては正常以上に機能することもあります。 

 私に胃腸の不具合が起きているとします。各種の検査の結果、胃が荒れていて炎症を起こしているということが分かったとしましょう。私の胃炎が意味しているのは、胃に不具合が生じているということであって、それ以外の器官、咽喉や食道、腸などは健常であるということであります。胃以外は損なわれていないか、多少の影響を受けているとしても治療するほどのものではないということを意味しています。また、胃炎といえども、炎症をおこしているのは胃の中の一部分であることもあるでしょう。 

 精神的な病、心の病においても同様であります。その人が病んでいるのはその人の精神の一部分なのです。精神の領域は、身体領域に比較するとはるかに目に見えにくいのでなかなか気づかれないことも多いと思うのですが、それでも病んでいるとみなされているのは一部分のみで、それ以外の健康な領域がどの人にもあるのです。 

 例えば、まともな人間ではとても犯せないような異常な犯罪事件が起きて世間を騒がすことがあります。その犯人が逮捕されたとしましょう。しばしば、犯人の近所の人たちが「あの人がそんなことをするなんて信じられない」とか「そんなことをするような人には見えなかった」などといったコメントをすることがあります。そこで犯人の「心の闇」がどうなっていたのかといった愚にもつかない議論が持ち上がるのですが、これは至って簡単に説明がつくのであります。近所の人は彼の心の健康な部分と関りを築いていたということなのだと思います。この犯人が精神的に病んでいて、それでそのような猟奇的な事件を犯したとしても、それでも尚、その犯人の心には正常な領域があるのです。 

 精神的な病とか症状を持つ人であっても、普通に適応できる場面があったり、普通に人と関わることのできる人がいたりします。仕事のできる人もあれば、なんらかの業績を残すといった人もあるのです。そういうことが可能であるのは、その人の中に損なわれていない健康な部分があるからであります。 

 身体領域に関してはあまりそういうことが問題になることはないのですが、どういうわけか精神的な病の場合、精神全体が病んでいるとか、人格全体が歪んでいるとか、そういう偏見が生まれることがよくあるように思います。精神病者といえどもいついかなる場面においても精神病的であるわけでもないし、四六時中精神病であるというわけではないのですが、そのようなイメージを持たれる方も多いのではないかとも思うのです。 

 これは心の病を抱えているとされる人のすべてに言えることでありますが、その病が問題となる特定の場面というものがあります。その場面以外ではその人は普通の人となんら変わらない生活を送っているのですが、そちらはあまり注目されないようにも思います。不安性障害と診断される人は特定の場面や場所においてその障害が問題になるのであり、不眠症なら就眠時にそれが問題になり、不登校であれば登校時間にそれが問題になるのであります。それ以外の時間や生活場面においては、彼らはきわめて普通に生活するものなのであります。その人の心に健常な領域があるからそれが可能になっているのであります。心の病というものは、それが発現する特定の場面を抜きにしては考えることはできず、その場面以外においてはそれは問題になることがないのであります。 

 私たちは心身の病気に罹患することがあります。どの人にも病気の可能性はあるのです。絶対病気にならない人なんていないのであります。仮に病気になったとしても、損なわれているのはその人の一部分だけなのであります。人間は多様な全体であり、全体が病気になるということは稀であり、その人の病はその人の一部において発生するものであります。病や障害はその一部分に限定することができるのです。「治らない人」はこれを認めないことが多いという印象を私は受けています。その人の抱えるものがなんであれ、それはその人の全体の内にあるはずなのに、そのことが認められないということは、その病がその人の全体を占めていると考えられるわけであり、これを「病との同一視」と表記しているわけであります。 

 

(「病との同一視」) 

 ある人が病気と同一視しているとは、「私はその病気であり、その病気が私である」という関係性を築いているということを意味しています。その人と病気とはイコールの関係になっているようなものであり、両者の間にはいかなる亀裂も生まれないのです。すでに述べたことから明らかなように、このような一体化は現実ではないのです。その人がそのようにしてしまい、そのように体験してしまうのであります。 

 なぜ病気との同一視が生じるのかということですが、これにはいくつかのパターンがあるとは思います。その一つとして、意識が病気に集中することによって、病気が意識全体を占めることになってしまうという形のものを上げることができます。 

 自分の中に何か良くないものを抱えてしまうのです。それは彼にとって悪い体験であったり不幸な出来事であったりするのですが、そうした体験を「異常」なものとして受け取るのだと思います。異常な体験をしてしまって、その体験が自分の中にあるということが耐えられなくなるのでしょうか、何とかしてこの異常なものを処理したいと彼は願うのでしょう。そのため、彼はこの異常な何かに取り組むようになるのですが、そこで過度にそれに意識を集中させてしまうということが生じるのだと思います。意識はそれに占められることになるのです。 

 それは喩えればカメラのレンズを絞るようなものです。全体の風景の中から一つの対象物にレンズを絞っていくと、その他のものは背景に退き、フレーム外へと追い出されていくことになります。そして、レンズの画面にはその被写体だけで占められているという状態になるわけです。何か一点に意識を集中するというのもこれに似ていると私は考えています。その他のものが意識野から出て行き、その一点が全体を占めることになります。 

 この、一点が意識の全体を占めてしまうという状態は、その一点が見えるもの、意識されるもののすべてになってしまうということなので、そこから自分との同一視が起きるのではないかと私は推測しています。それ以外のものが排除されてしまうので、それだけが自分であるという体験につながるのではないかと思います。 

 その辺りの経緯は人によって異なるでしょうし、何よりも、その経緯を詳しく教えてくれるクライアントもおられないので、あくまでも推測の域を出ないものであることをお断りしておきます。どのような経緯をとるにしても、「自分におかしなものがある」という感覚から「自分がおかしくなった」「自分がおかしい」という感覚へと発展していくものであるように私は思います。この時、かつては自分の一部であったものが、自分の全体になったと考えることができるということであります。 

 そこにもう一つ別の要素が加わることもあるように私は考えています。病に意識を集中させ、それが自分の全てであると体験するようになると、その人は常に病を見ることになってしまうと思うのです。私と病とが一体であるなら、私の体験するあらゆることに病が関係してしまうことになると思うのです。サングラスをかけるとすべてが暗く見えるのと同じで、彼はあらゆるところに自分の病を見いだしてしまうことになるかもしれません。私が認識するものは、同時に「病気の私」が認識しているものであるということになるので、いわば「私は病気だ」というメガネをかけて外界を見るようなことになるからです。実際にそのような人もおられます。偶然のような出来事でさえ、その病気と関係づけて認識されてしまうといったことも生じるのです。このような要因もまた、その人の病との同一視を強化してしまうことになると私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

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