<#005-2>病の二相(1)
(「私の病」と「病の私」)
精神的なものであれ、身体的なものであれ、およそ病気には二つの相を認めることができます。私はそれを「私の病」の相と「病の私」の相と呼んでいます。まず、この両者を押さえておくことにします。
「私の病」とは、私が今現在抱えている病気とか症状のことであります。医学が扱うのはこの相であります。ここで問題になるのは、私が罹患している病気そのものということになります。
一方、「病の私」とは、その病を抱えている私が問題になるということであります。それは現在罹患している病気だけでなく、過去に罹患した病気でさえ問題になることもあります。現在であろうと過去であろうと、その病気に罹患した「私」という人間が問題になるのであります。心理学、哲学、さらには宗教はこの相を扱うものと私は考えています。
私にとって、クライアントが「治る」というのは、もっぱら後者の領域の話であります。この場合、彼の抱えている症状は副次的な意味しかなく、その症状を抱えている彼がどのような人間になっていくかがもっとも大切な観点になります。
さて、「私の病」と「病の私」という二つの相を、おぼろげながらでも、理解できるでしょうか。
(「治らない人」は理解できない)
私は現実にクライアントにこの二相について話すことがあります。大抵の人はこの二相を理解されるのであります。あまり明確には理解できなくても、感覚的あるいは経験的に理解できると思われる方もおられます。いずれにしても、「病気であること」と「病者であること」に関して二つの相を区別すると説明されても、何らかの形であれ、理解されるのであります。
実は「治らない人」の中にはこの二相が理解できない人もおられるのです。「私の病」と「病の私」と、何がちがうの? と彼らは疑問を覚えるようであります。
それで私は実例なんかを挙げながら両者の区別がつくかどうか試してみるのです。かろうじて理解できるという人から、最後まで理解できないという人までおられます。
「私の病」というのは病気とか症状、その他怪我とか障害であるということは彼らには分かるのです。「病の私」とは、私のアイデンティティとか在り方といった側面と深く関わっているのですが、彼らはこちらが理解できないようであります。
「病の私」という観念が理解できないのは、彼らのアイデンティティ感覚と関係していると私は考えています。この二相は、要するに、主体が経験する出来事とそれを経験する主体という二相なのでありますが、主体の感覚に乏しいために後者の理解が困難になるのではないかと思います。主体の感覚が乏しいということであれば、病気は主体によって体験されるものではなくなり、それが主体に取って代わることが起こり得るのです。だから「病」は認識できても、「私」は認識されなくなるのかもしれません。これは後に述べる「病との同一視」に関係するものでありますので、その時に再び取り上げることにしたいと思います。
次のように申し上げると理解しやすくなるでしょうか。どのような病気もその人の一部でしかないということはお分かりいただけるでしょうか。足が不自由な人は足以外は健常者と変わらないのです。心の病においても病んでいるのは心の一部分だけであるのです。精神病者であっても健康な部分を持っているのです。その健康な部分があるから、他の人との関係を築いたりすることもできるのであります。
「私の病」とはいわばその一部分だけを指しているわけであり、「病の私」とはその一部分を含めた全体を指しているわけであります。「私の病」ではその一部分がどのようなものであるかが問題になるわけですが、「病の私」の相においては、その一部分と全体との関係がどのようなものになっているかということが問題になっているわけであります。「治らない人」の中にはこの一部分が全体になってしまっている(その一部分しかないという)ような人もおられるようであり、二相のうちの一方しか理解できなくなってしまうようであります。
(4つのタイプ)
それでは、「私の病」(病気としましょう)と「病の私」(病人としましょう)との関係を、それぞれを組み合わせることで整理しましょう。ここでは4つのタイプを見ることができます。
A「病気があるから、私は病人だ」
B「病気が無いから、私は病人ではない」
まず、この二つを見ましょう。AとBは、言い方こそ違うけれど、結局、同じことを述べているのであります。上述の「治らない人」たちはこれは理解できるのです。病気と病人とが同一であるからです。
しかし、次の二つのタイプもあり得るのです。
C「病気は無いけど、私は病人だ」
D「病気はあるけど、私は病人ではない」
この二つは理解できるでしょうか。Cは心気症的な人を思い浮かべればよろしいでしょう。検査してもどこも悪くないのに、検査の方が間違っているなどと信じ、あそこが悪い、ここが痛いなどと訴え、自分が病気ではないかと常に不安に襲われているような人たちをイメージするとわかりやすいでしょうか。本当は病気ではないのに、病人としてしか生きられないような生き方をしてしまう人であります。
Dは、これは病気を否認しているというものではないという点に注意が必要であります。この人は自分の病気を抱えています。決してそれを否認しているのではありません。でも、この人は病人として生きてはいないのであります。病気を抱えながらでも、病人として自己を体験しているのではないのです。本当に「治る」とは、このようなものであると私は考えています。病気があったとしても、また、そのために治療を続けているとしても、彼は病人として人生を送ってはいないのであります。
もちろん、病気や症状も治癒できるのであればそれに越したことはないのでありますが、それは医学が携わっている領域の話であり、カウンセラーはあまりそこには関与しないものであると私は考えています。
ただし、両者には相互に関連もあるので事情が複雑になります。その人の病気はその人がどんな人間であるかを規定する部分があり、その人がどんな人間であるかということがその人の病気を決定するという部分もあります。だから医学の領域と心理学の領域とはなかなか明確に境界線を引けないというところもあるのですが、基本的に精神医学と臨床心理学とはお互いに対立するようなものではないと私は考えています。
(治るとは)
以上を踏まえて、ここでいう治るとは、クライアントが新しい生を生き始める、新たな自分を生きるようになると定義しておきましょう。従って、症状そのものよりも、その人の精神的な変容であるとか成熟ということがより重要な観点になってくるわけであります。彼は病人ではなく、仮に症状やハンディキャップがあったとしても、一人の人間として、人間社会から脱落することなく、生きていけるようになることが目指されていくことになるのです。
本項では病の二相についてその大枠を述べてきました。記述が重複することもありますが、次項からもう少し詳しく見ていきたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)