<#005-28>原因探求の陥穽~補足集(3) 

 

 もう少しだけ付け加えておきましょう。原因探求に没頭する人たちは過去をやたらと想起しようと努めるのでありますが、既に述べたようにこれは「悪い」何かにかかりきりになっているということになるのです。別の角度からその点を述べておくことにします。 

 認知心理学の分野の研究によると、どういう立場で想起するかによって想起される内容が異なるという知見があります。視点の持ちようによって違った部分を想起するということであります(注1)。 

 この知見を踏まえて言うと、もしある人が自分を努力家とみなしているならば、その人は努力して試験に受かったとか記録を樹立したという内容のものをより想起するでしょう。少し手を抜いた場面やサボったことがあっても、そういう内容は想起されないことでしょう。少なくとも、最初の内はそれらは想起されないことでしょう。 

 自分を失敗者として体験している人は、失敗した体験をより想起するでしょう。成功したという体験はなかなか思い出せないかもしれません。 

 つまり、自分自身をどのような人間として見ているかとか、アイデンティティとか自己イメージとか、自己認知とか、自己像とか、そうしたものが想起内容を選択する傾向があるということであります。 

 自称ACのような人が原因探求に没頭して過去を想起しようとしている時、この人はどういう自分として想起しているのでしょうか。そこが大いに問題になるところなのであります。 

 被害者として体験している人はそれだけ被害体験を想起することになり、自分が被害者であるという認識をさらに強めてしまうかもしれません。実際、そういうことは生じるものであると私は思うのです。 

 毒親の子供として自分自身を体験している人は、毒親の想起を優先的にしてしまうことでしょう。それ以外の場面があったとしても、そこはなかなか想起されないかもしれません。 

 原因探求に没頭しているクライアントたちは、私の見受ける限りでは、決して中立的な観点から想起しているとは思えないのであります。必ず特定の視点に立って想起しているのであります。そして、その視点が想起の内容を選択してしまうのであります。従って、自分を何か良くない存在として、つまり「悪い」存在として体験している人が過去を想起すると、それに関連した事柄ばかりが想起されやすくなるので、ますます自分を「悪」と認識してしまうことになり、この「悪」から逃れることがなくなっていくように私には思われてくるのです。だから「悪」にかかりきりになってしまう、とそのように考えている次第であります。 

 従って、私個人は原因探求ということは重視していないのでありますが、もし原因探求をするのであれば、まったく中立的な視点に立った第三者に頼むか、自己イメージがより適切なものに変化してから取り組むかのいずれかでなければならないと私は考えています。自分で探求するというのであれば、その前にその人の自己像が変わっていることが求められるのであります。その順序が逆転してしまっているのであります。 

 原因探求という文脈ではないけれど、今述べたことはカウンセリングの場で遭遇することなのであります。クライアントが過去の話をする時に、そこで取り上げられている過去の話が以前とは違って来たなと気づくことがあるのです。これはクライアントの内的変化を示しているのであって、本項の表現に従えば、クライアントの自己像に変化が起きているので想起されている事柄が変わってきたということになるのです。 

 

 さて、もう一点あるのですが、私は前項で予期が行動を牽引すると述べました。原因探求という活動に没頭する人たちもそれによって何かが達成されるという予期を持っているはずではないかと指摘する人もあるかもしれません。 

 あまり過度に没頭する人や強迫的なまでにそれにのめりこむという感じの人は、それによって何かがもたらされることを予期しているというよりも、現在の恐怖感や不安の低減を求めているという印象を受けるのです。ただ、その低減はもたらされていないようであり、もたらされたとしても一時的なものでしかないという印象も受けています。あまり有効な手段とも思えないのであります。 

 しかし、原因探求することで何らかの結果を予期しているという場合もあるかもしれません。そこで「コントロール性」という概念をもう一つ付け加えようと思います。予期していることに対して、どれくらい自分でコントロールできるかという観点であります。 

 もしこういう行為をすれば状況がこのように変わるかもしれないという予期には、状況を自分で変えうるというコントロール性を認めることができます。さらに、もっと別の行為も追加しようとか、もっと行為を控え目にしようとかというように、自分の行為に対してもコントロール性を有することを認めることができます。結果に対してもコントロールすることができます。ここまで変わると理想であるけれど、これくらいでも構わないというようにです。コントロール性が多岐に渡るほど、自由な選択肢も生まれるのではないかと思うのです。 

 原因探求に没頭している人たちの話、またはその周囲の人たちの話を伺うと、その活動からあまりコントロール性を見出すことができないように私は感じています。過去に経験したことは自分のコントロールから外れてしまうのです。他者もまたそうであります。他者をこのように変えようと試みても、変わる主体が他者であるためにこちらのコントロール性は低くなるわけであります。今の状況を変えようという試みに対しても、原因探求は今の状況に直接的ににアプローチしていないので、コントロール外に置かれてしまうと私は考えています。 

 予期に関しては自分でどうこうできる余地があるのに対して、原因探求活動に関しては自分でどうこうできる余地がほとんどないと私は捉えています。両者を比較すれば、前者には選択や調整の自由があり、自分を束縛する程度は少なく、後者はそれらの自由がなく、自分を束縛しなければならなくなる(コントロール性が低い)のです。従って、原因探求はさらに自分を苦しめる活動になってしまうと私は考えています。 

 

(注1) 

 このことはアンダーソンらの実験で示されています。 

 遊びに来たピート少年に、マーク君が家を案内するという内容の文章を被験者に提示するのです。被験者には後でその家のことを想起してもらうのですが、その際に、その家を買うつもりになって想起する場合と、その家に泥棒に入るつもりになって想起する場合とでは、想起される内容に違いがあったというのであります。前者では、例えば築年数が古いとか、雨漏りするとか、庭が広かったとかといったような、その視点、立場に基づいた内容が想起されるのです。後者では、例えば書斎に金庫があるとか、母親の部屋の鏡台にダイヤの指輪が入っているとかいったような、やはりその視点、立場に基づいた内容が想起されたということなのです。 

 新しい視点、または別の視点をとることが、前には思い出さなかった新しい情報を想起する内在的な手掛かりとなったということであります。(『緊急時の情報処理』認知科学選書9 池田謙一著 東京大学出版会 参照) 

 

 私が本項で述べていることはこうした実験による知見に基づいているわけであります。どういう視点に立つかで想起される内容が左右されるのです。言い換えると、その人がどういうことを想起するかで、その人がどういう視点に立っているかを推測することもできると私は思うのです。その視点や立場が変わることの方が、原因探求なんかよりも重要なことであると私は考えている次第であります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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