<#005-27>原因探求の陥穽~補足集(2)
人生上の諸困難に遭遇して前に進めなくなったクライアントたちは、まずどうしてこういう事態になったのかといった理由を考えることが多く、そこから原因探求へと乗り出してしまうのです。
そこまではいいとしても、一部の人たちはその探究活動から身を引いていくのに対し、他の人たちはさらにその活動に没頭するようになります。
この原因探求とは、蓋を開けてみれば「悪者探し」であることが常なのであります。この人たちにはそれをせざるを得ない事情があるとしても、ここでは一旦そこは度外視しておくことにします。
原因を探求することは治療そのものではないし、因果が一対一で対応するわけではないのであらゆることがこの因果に関係してくることになり、当人の手に負えなくなることもあります。また、それは常に過去における悪い何かと関わり続けるということになるので、当人にとって耐えがたい活動になってしまうこともあるように思うのです。以上はすでに述べてきたところのものでありますが、本項ではまた違った観点から述べたいと思います。
(見通しに関して)
原因探求のような活動はしばしば不毛な結果になることが多いと私は信じています。特に心の問題に関してはそうであります。原因となるものを特定することが極めて困難であるからです。
加えて、なぜそれが不毛になるかというと、そこから予測が生み出されないからであります。つまり、原因を探求して、そこからどういうことが予期されるのかということが不明確であるわけです。
私たちの行動は将来の予期を巡って発生するものであります。例えば空腹を感じるとします。この欲求が摂食行動を誘発するだけでなく、食事をすれば空腹が満たされるという予期によっても誘発されているのです。この点を押さえておきたいと思うのです。人を行動に駆り立てるのは欲求ばかりでなく、そこには将来の予期も大きく関与しているということであります。
また、将来の予期が明確であればあるほど、その状況のストレスが軽減されるという側面があります。先の例で言えば、空腹状況はそれ自体でストレスになるかもしれませんが、もう少し先へ行けば食堂があってそこで食事をすることができるという予期があると、このストレス感が軽くなるというわけであります。これの予期がつかない状況、例えば食べるにもお店がどこにもないとかいう状況は、空腹状況をよりストレスの強いものとして体験してしまうことでしょう。予期とか予測の有無が、さらにはその予期の明確さが、苦痛に関係していると言えるわけであります。
私が一番に優先したいことは、すでに述べたように、原因探求ではなく、クライアントに「見通し」がつくことであります。つまり予期とか予測が生まれることであります。この見通しがクライアント牽引していくのであります。原因探求を放棄するのは、そうすることによって見通しができるからであります。この見通しがつくということが、クライアントの生への意志を高めることにもなるのです
(複数の予期)
では、どのようにして見通しなり予期なりが発生するのかということですが、これはまず状況や状態の認知ということから始めなければなりません。すでに何がその人に起きているのかを知る方が有益であると述べましたが、それはその人の状態とかその人の置かれている状況とかを正しくかつ現実的に知ることであります。
状況や状態が認知できれば、そこから予期の道筋が立てられるのであります。
まず、「状況予期」があります。これは、このまま何もしないで放置した場合、どのような状況になるかに関する予期であります。これに関して、これまでの経緯ということが参照されることになります。
次に「行為予期」が挙げられます。これは、ある行為をした場合にどういう結果がもたらされるかに関する予期であります。ここには現実的な行為から非現実的な行為まで、また実行可能な行為から実行不可能な行為まで、幅広い選択肢が広がることになります。個人的には非現実的なものや実行不可能なものも含めて考えてみるのも結構なことだと思っているのですが、現実的で実行可能なものを採択する方が時間の節約にもなるのです。もし、こういう行為をしたらどういう結果になるか、もしああいう行為をしたらどういう結果になるかなど、さまざまな選択肢が生じる中で、現実に試行錯誤をする人もおられます。
最後に「可能予期」があります。これはある行為をしてある結果がどれくらいの可能性で生じるだろうかということに関する予期であります。その行為がどれくらいの確率でその結果をもたらすだろうかに関する予期ということであります。
状況予期には、この状況の何が変更可能であるかの予測を生み出し、そこから行為予期を導くことができるのです。その行為予期に基づいて可能予期を立てることができることになります。可能予期は、はたしてそれが自分にできるかどうか、どれくらいできるかどうかといった予期も含むので、可能予期は行為予期を修正することもあります。そして、行為予期が適切なものであれば、クライアントはそれに基づいた行動を採択するようになるわけであります。原因探求なんか必要ないのであります。
過去の原因よりも将来の予期の方が重要であります。クライアントはそういう予期ができない状態で来談されることが多いので、しばしば私がその人のことを予期してみなければならないのであります。言うまでもなく、その予期はこのままの状況が続けばこうなるだろう(状況予期)という程度のものしか最初は言えないのでありますが、不測の何かが生じた場合、予期が外れるということもあります。しかし、当たるとか外れるとかいうことが問題なのではなく、見通しを立てるということが肝心なのであります。
そして、クライアントのことを理解できるようになると、行為予期や可能予期に関しても予測してみることができるのであります。この人はこういうことができるだろうから、もしそれをすればこんなふうに事態が進展するのではないかといった予測を立ててみることもできるわけであります。やはり、言うまでもなく、それをクライアントがするかどうかはクライアント次第ということになり、強制するわけではありません。ただし、一緒に見通しを検討していくうちに、クライアントが自ら見通しを立てるようになるということは見られることであります。
また、悪い予測が立った場合でも、人は行動に移すこともあります。このままいけばもっと悪い状態になるといった予期は、それを回避したい欲求と行動をその人に生み出すこともあるわけです。
良い予測であろうと悪い予測であろうと、予期とか見通しがクライアントの行動を導くのであります。原因探求からはこうした行動牽引が生じないと私は考えています。つまり、原因探求という行為自体からは次の行為が発生しないと考えているのです
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)