<#005-26>原因探求の陥穽~補足集(1) 

 

(原因探求は「悪」と関わり続ける) 

 宗教的な観点から取り上げてみましょう。 

 煩悩退散とか、悪よ去れとか、こうした言葉に見られるように、宗教は悪を遠ざけるというアプローチを取ることが多いのです。罪の告白ということも、「話す」は「放す」につながると考えられ、自分の外に出すことによって、それを遠ざけていくというアプローチをそこに認めることができるように思います。罪を自分自身から引き離すわけであります。 

 大抵の宗教はそのようなアプローチをとるものであると私は思うのです。では、悪をどうやって遠ざけるのかと言いますと、それは善を積むことによってということになるでしょうか。悪を遠ざけ、善行を積み重ねていくことによってさらに悪行を追放していくと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、ここで向き合っているのは、悪ではなく、善であります。 

 しかし、この悪を徹底的に破壊しようという形で追放する場合、それはかなりカルト宗教の様相を帯びることになると私は思います。悪を破壊し、悪を消去することによって、自分たちから悪を追放するというアプローチであり、この場合、常にその悪と直面し続けることが不可欠となります。 

 どちらかのアプローチを採用するとなれば、私は迷うことなく、前者を採用します。後者は悪と関わりすぎることになるからであり、その理由で採用したくないのであります。 

 心の問題における原因探求とは、ある意味では、過去における悪と関わり続けるということでもあります。原因探求に没頭することの弊害は、その人をして自分の記憶の中にある悪と四六時中かかわり続けることにあると私は考えています。悪と関わり続けることで、その人の中に望ましいものが生まれるとも思えないのです。仮に不可能ではないとしても、確率的にかなり低いであろうと私は信じています。 

 問題と関わり続けることは、必ずしも問題解決に導かないのです。むしろ問題から離れている時に解決の糸口を見いだすことも私たちは経験するところであります。これは別の項目で取り上げるのですが、「治らない人」は問題しか取り組まないのであります。問題を解決するために問題だけに取り組み、問題以外のものはすべて切り離してしまうのであります。 

 私はカルト宗教のようなことはしたくないと思っています。もし、ある人の問題の原因がその人の親にあるとしても、心理的に距離をおくといいとは伝えても、親を攻撃していいとは示唆しないのです。そのような助言はカルト教団の教義と等しいと私には感じられています。 

 

(因果よりも現象学的観点) 

 原因探求は、自分の過去経験の中の「悪いもの」を見つけ出そうとする行為となります。その人は自分の経験内にある「悪」と関わろうとしているのであり、実際、関りを始めているのです。既に述べましたが、このような作業をするとなれば、その人に強さが求められることになります。もし、その人の自我がそれに耐えられない状態であるならば、原因探求のような作業に踏み出してはいけないのであります。特にAC者のような人たちの中におられるのですが、そこに踏み出してしまって却って自己崩壊してしまうような人もおられるように思うので、慎重に判断しなければならないのであります。 

 もっとも安全なのは、その人の自我の強弱に関係なく、原因探求なんかに踏み出さないことであります。なぜ問題となる行動が生まれるのかよりも、その行動が生まれる時にその人の中で何が起きているのかを理解していく方が治療的には意義があるのです。その行動の原因を探求しても、その原因は大抵の場合その人の外部の何かに求められてしまうので、仮に原因となるものが判明しても、その人がどれだけそれに対処できるかは疑問であります。その人の中で何が起きるのかを知っていく方が、その行動に対しての対処の道が開かれると私は信じております。 

 つまり、因果的観点ではなく、現象学的観点が求められるのであります。 

 

(原因探求は負担と不安をさらに高める) 

 クライアントたちはしばしば不安に駆られて過去に没頭してしまうこともあるようです。原因探求のようなことをしていないと不安になるとおっしゃられる方もおられるのですが、これは却って不安を高めてしまっているかもしれません。何人かのクライアントからは、原因探求のようなことを放棄してからの方が落ち着くと報告を受けたことがあります。その通りだと私は思うのですが、悪いものとの関りが減少したためでありましょう。 

 それは人によるのではないかと言われるとそうかもしれません。しかしながら、原因探求に没頭してしまっている人は、それに多大なエネルギーを注ぎ込んでいることが多いので、それを放棄するとラクに感じられるということはあり得ることであると私は考えています。 

 

(完全主義的悪者探し) 

 また、外に原因がないのであれば、すべて自分が悪いということになってしまい、それが耐えられないと感じてしまう人もおられるでしょう。それが耐えられないので原因を探さなければならないという感情に襲われてしまうのかもしれません。しかし、これは結局は誰が悪いのか、何が悪いのかという悪者探しでしかなく、自分か他者かのいずれかを原因としなければ決着しないということになるわけで、この次元の思考から抜け出た方が望ましいと私は考えています。というのは、この場合、他者が完全に悪でなければならないわけであり、他者に少しでも悪ではない部分があれば、自分が悪になってしまうので、徹底的に他に原因帰属させなければいられなくなるからであります。つまり、妥協されるところがなく、完全主義的にそれをせざるを得なくなってしまうからであります。宗教で言えば、これはカルト化しているということになるでしょうか。 

 原因が他にあるということでその人が安心できるのであれば、この人は不安に襲われるたびに原因探求をするようになるかもしれません。こうして得た安心は非常に脆いものであるかもしれません。得られる安心が脆いので、繰り返し原因探求しなければならなくなるのかもしれません。 

 不安を軽減し、安心をもたらす行為のように見えていても、それがもたらす安心は脆弱であるかもしれず、さらに不安軽減活動に没頭しなければならなくなるのかもしれません。 

 

(過去経験を聞く意味) 

 さて、本項は「原因探求の陥穽」テーマの補足ということで雑多な内容になったと思います。私もカウンセリングにおいてクライアントの過去経験を伺うことがあるのですが、それは原因を探求するためではないのです。その人がどういう経験をしてきたのか、あるいはその人の人生のどの時期から上手く行かなくなり始めたかを知りたいと思うからであります。あるいは、その人にとってもっとも良かった時代、いわゆる黄金時代と呼べるような時代があるかないか、あるとすればそれはいつの時代であり、その時代にその人がどういうことをしていたのかなどを知りたいと思うのであります。そして、それほど細部までいたらなくてもいいのですが、ある程度その人の人生を再構成できるくらいの情報は得たいと思うのであります。 

 その人の過去や成育歴というものは、その人を理解する上での背景として意味があるのであって、その限りにおいて、私もクライアントから伺うのであります。決して、問題の原因を探すために伺うのではないのであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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