<#005-20>感情的正当性の優位~「治る人(3) 

 

(自分だけが苦しい) 

 「治らない人」たちは、普通に生活している人たちを見て、「あの人たちが普通の生活を営むことができるのは、苦しいことがないからだ」と評価されることがよくあります。苦しまないので生活できているというわけです。この言い分には正しいところがあるのですが、ただ、その思考展開は逆であるのです。彼らは仕事や家庭などに一生懸命取り組んでいるから苦しいことを感じ取らないのです。前項の定式を踏まえればそういうことになるわけです。 

 「治らない人」たちは、自分だけが苦しいと思いがちであります。彼らからすれば、他の人たちはこんなふうに苦しんでいるように見えないのでしょう。ある部分では、それは正しいのであります。そして、自分も彼らと同じようにできるとはこれっぽっちも信じていなかったりするのであります。「治らない人」たちの中には、打ち込めるものを何ももっていなかったりするので、人一倍、苦しみ(不快感情体験)を知覚してしまっているのかもしれません。 

 

(カウンセリング場面) 

 カウンセリング場面でも同じことが生じると私は考えております。つまり、クライアントのカウンセリング場面への自己参与度が高いほど、不快に対する感受性が低下するので、その場面で不快感情体験をしなくなると考えています。自己参与度が低いほど、不快感情体験をしてしまう(よりそれに気づいてしまう)のではないかと、そのように考えているわけであります。 

 クライアントのカウンセリングへの自己参与度の高い低いはどこで判断できるのかと思われる方もいらっしゃると思うので、私の見解を簡潔に述べておきます。 

 一つはクライアントの話であります。その話がクライアント自身の事柄であるか、その他の事柄であるかというところで判断ができるのです。自己参与度が高いクライアントほど自分自身の事柄を話されるのであります。 

 また、自分自身の話であっても、それが観念的な内容のものであるか、その人の体験した事柄であるかでも違いがあると思います。自己参与度が高いほど、体験している事柄の方をより話されるのであります。 

 あと、クライアントの姿勢といいますか、動機、目的からも判断できるのであります。例えば、単に専門家の意見を聞きにきましたといった態度のクライアントは参与度が低くなります。表面上は話し合いの場にいても、他のことを考えていたり、内面では別の作業をやっていたりという場合も参与度が低いと評価できるでしょう。これを言ったらどういう反応をするだろうかとカウンセラーを試したりとか、見捨てられるのではないかとい心配ばかりしているとか、あるいは、自分をいかに隠蔽するかとか、どうやってこの時間を切り抜けようかとか、いかにして相手を打ち負かしてやろうかとか、そういった動機ないしは姿勢の人たちも参与度が低いと言えるでしょう。 

 カウンセリング場面への自己参与度の程度について、ロジャーズやジェンドリンはこれを「体験過程スケール」として構造化していますが、クライアントの体験過程が高いほど、カウンセリングをよいものと経験し、カウンセリングから利益を得るとされています。私はそこにもう一つ付け加えたいと思います。体験過程が高いほど、不快感情体験を(その感受性が低下するので)しなくなると。 

 また、クライアントの参与度の低さは、治療にたいする「抵抗」として概念化されることもあります。本項の定式に従えば、治療への抵抗が強いほどその人は不快感情体験をしてしまうことになると言えるでしょう。 

 これは事実そうであると私は考えています。治療への抵抗感が低下すると、治療を良いものとして経験するようになるのです。少なくとも、不快感情を経験する度合いが低下するという印象を私は受けています。おそらく、治療への抵抗が減少することによって、治療への自己参与度が高くなるからであると私は考えています。 

 つまり、治療やカウンセリングへの抵抗が少ないほど、その人はその場面において不快感情体験をしなくなる傾向があるということになります。そして、それは自己参与度が高くなるので、不快に対する感受性が低下するためであります。 

 そのように考えるので、私はカウンセリングを必要としている人に受けてもらうのが一番いいと考えています。問題を抱えているか否かではなく、必要としているかどうかで決める方がいいと思う次第です。 

 例えば、問題を抱えている子供がいて、母親が子供にカウンセリングを受けてほしいと望んでいるという例を挙げましょう。これは実によく見られる例であります。この時、カウンセリングの必要性を認めているのは母親であります。だから母親が受けに来るのがいいのであります。子供が受けたがらないのに、無理して受けさせても、この子供は悪い経験をそこでしてしまう可能性の方が高いと考えられるからであります。子供が受けた場合、それは本人が望まないことであるので、おそらく自己参与度が低くなるでしょう。そうして不快に対する感受性が高まるとすれば、あらゆることに不快を覚えることでしょう。そうなると、この子供はますます治療への抵抗感を強めることになるでしょう。では、どうするのかということですが、母親が受けに来ればいいのであって、それ以後のことは別テーマになるのでここでは取り上げないことにします。 

 

(耐性の強弱) 

 不快感情体験、不安や痛みなど、それらに対して「耐性」という言葉で表現されることもあります。「不安耐性が弱い」などと表現されたりするわけです。私は賛成しません。「耐性」という言葉では、それに「耐える」というニュアンスが前面に出てしまいます。また、その「耐性」が強いとか弱いとかという基準で評価されることになり、それもまた誤解を招いてしまうと考えています。 

 不安耐性が強いという人は、いくつかの要因があるのですが、その一つとして、打ち込む何かを持っており、それに集中できる人であるということができるのではないかと私は考えています。それに打ち込めば打ち込むほど、つまり、自己参与するほど、その人は不安に対する感受性が低下するので、不安を経験する割合が下がることになります。これは不安に耐えているというイメージでは捉えられないという感じがします。 

 私が思うに、「治らない人」は耐性が低いとか弱いとかではなく、自分の人生のテーマを持っていないところに問題があると思うのです。自己参与できる対象を持っていないということが問題であり、そのために不快感情をより体験してしまうことになるのかもしれないのです。従って、ここに一つの逆転現象を見る思いがするのです。悪いことを体験しなくなったらいろんなことができると「治らない人」は考えるのですが、そうではなく、取り組む対象を持ち、現実に取り組むようになるから悪いことを体験しなくなるのであると私は考えています。 

 精神的に健康な人というとどのような人をイメージされるでしょうか。おそらく、仕事を一生懸命して、趣味とか私生活も充実してというような人物像を思い描くかと思います。私の見解では、健康だからそういうことができるのではなく、そういうことをするから健康なのであります。この人は自己参与する対象をたくさん持っているということになるので、それが不快の感受性を下げているのであります。 

 従って、自己参与できる対象がなくなること、あるいは自己参与の程度が下がることは、不調をより招くことにつながるわけであります。不快なことや不調への感受性が高まるので、よりそれらを知覚し、意識してしまうからであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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