<#005-09>感情的正当性の優位
(感情的正当性)
本章では、カウンセリングを受けて何らかの改善が見られた人たちを「治る人」とし、改善や変化がまったくあるいはほとんど見られなかったような人たちを「治らない人」として二分し、両者の間で何が違うのかを主題として考察しています。
本節では「感情的正当性の優位」を取り上げることにします。私は、個人的には、これは「治らない人」に典型的に見られる傾向であると考えています。
その前に、感情的正当性という概念を説明しておくことにします。これは私が勝手にそう命名しているものなのですが、要するに、あることの判断がもっぱら当人の主観的な感情や気分によってなされているということであります。何かを始めるにしろ止めるにしろ、その判断の正当性がもっぱら当人の感情や気分に基づいているということであります。
簡潔に述べれば、感情的に快体験のものは良くて正しいとなり、感情的に不快体験は悪くて間違っているというふうに評価・判断してしまうということであります。同様に、快感情をもたらしてくれる人は善い人であり、正しい人であると判断され、不快感情をもたらす人は悪い人であり、間違った人であると評価されることになります。また、自己評価に関しても、快感情体験をしている自分は良い自分であり、不快感情体験をしている自分は悪い時分であるといったように体験されることになります。
快感情とは、例えば、安心するとか、落ち着くとか、心地いい、楽しい、快適、満たされるなどといった、いわゆる「肯定的な感情」を総称しています。不快感情とは、不安とか、落ち着かない、不愉快、痛い、苦しい、不満、罪悪感などといった「否定的な感情」をすべて含めています。
感情を喚起する体験や出来事は快か不快かのどちらかに属することになるでしょう。感情的に快でも不快でもないという体験や出来事は当人にとってなんら印象に残ることはないでしょう。印象に残らない体験(というものがあるとして)はここでは問題にならないことなので取り上げることはないでしょう。記憶に残るような体験であれば、あるいは何らかの意味のある体験であれば、そこには快不快の感情が体験されていることでしょう。重要な体験、意味のある体験は、快か不快か(あるいはその両者)を伴っているものであると私は思います。
また両種の感情体験は状態によって正反対なものになることもあります。例えば、物事が順調に進んでいる時には、前に進むことは快感情となり後退することは不快感情になるでしょう。しかし、それが順調に進まず、停滞したり壁にぶつかったりしているような状態においては、前に進むことは苦しいことであり不快感情体験になり、後退することは苦しい状況から距離が取れるので快感情体験になるでしょう。その人が経験している出来事だけでなく、その状況においても快感情体験や不快感情体験は入れ替わることもあるということであります。同じ人物に対してでも、快感情と不快感情はその時々で入れ替わることもあります。
もう一つ、快感情が得られない場合では、不快感情体験を追放することが正しいと評価・判断されることもあります。これも実に厄介であります。というのは、自分は被害者なのだから加害者に対して何をしてもいい、加害者を殺しても正しいなどと判断してしまうことがあるからです。それがどうして良くないことなのか当人にはなかなか理解できないのです。このような判断は感情的正当性の優位さを示しているものと私は理解しています。
(優位であるということ)
感情的正当性という名称で表わしている概念が理解していただけるでしょうか。今はよく分からなくても後々理解できてくることと思いますので、私たちは論を進めたいと思います。
感情的正当性は、それ自体では問題にならないことも多いのですが、それが優位であることがここでは問題になります。というのは、その場合、その人は物事を自分の感情だけで判断していることになるわけであり、感情だけで判断してはいけないことでさえ感情だけで決定してしまうといったことが生じうるからであります。そこにいささか問題が生まれてしまうのです。
「治らない人」たちにこの傾向が優位であるとは、簡潔に述べれば、治療が快適なうちは続け、少しでも不愉快なことがあれば中断するということを頻繁にしてしまうからであります。長年それを繰り返してきたという人も中にはおられるのであります。
「治る人」たちの中には、感情は副次的な意味合いしか持たない人もけっこうおられるように思います。私のことは好きになれないけれど、私の面接を受けに来る人もおられるのです。彼らは感情だけでは決めていないという印象を私は受けています。
「治る人・治らない人」に関しては後に取り上げることにして、もうしばらく感情的正当性の優位ということを見ていきましょう。
(児童においては普通であること)
感情的正当性の優位は、それ自体が問題であるというわけではありません。まず、小学生くらいまでの児童においてはそれが普通であると私は思います。児童では、判断の基準とか判断の手がかりになるものが限られており、どうしても自分の感情や気分に頼らざるを得なくなるからであります。そのように私は考えているので、児童では感情的正当性が優位であることは正常なことであり、なんら異常なことではないのです。私たちは誰もがそうであったのです。成長、発達につれて、感情以外の判断要因を持ち込むようになるので、感情に頼る度合いが減少し、よりきめ細やかで総合的な判断をするようになっていくと私は考えています。
例えば、あるいじめっ子が弱い者いじめをしたとしましょう。それを見つけた先生がいじめっ子に「なぜあの子をいじめるんだ」と問うたとしましょう。このいじめっ子は「楽しいからだ」と答えたとしましょう。実際、このような場面はよく耳にするところです。いじめっ子の言葉を額面通りに受け取るなら、「楽しい」ということがそれだけで正しいことであると判断しているようであります。快感情をもたらすので、それは正しいことであり、やっていいことだということになっているわけであります。
もう少し年長になると、例えば、いじめは道徳的に良くないことだ(規範の内面化)とか、いじめが見つかったら叱られる(処罰の可能性)とか、ここでいじめたらいつか仕返しされる(将来の可能性)とか、今後の人生に影響してしまうかもしれない(将来の展望)とか、いじめられる子がかわいそう(共感性)とか、ここでいじめたら後悔しそう(罪悪感)など、さまざまな材料や手がかりを駆使して最終的に判断し、自分の行動を決定するでしょう。ここでは快不快の感情だけでなく、時間的展望や他者や周囲の感情、道徳や倫理などが判断材料として入り込んでいるわけであります。判断の際に、快不快感情だけでなく、より多くの手がかりや材料を活用できるようになるのです。
繰り返しになりますが、感情的正当性の優位さは、それ自体はおかしなことでもないし、間違ったことでもないのです。ただ、それは修正されていく必要があるものです。社会性を身に着けるとは、感情的正当性の修正を含んでいるものと私は考えています。それが修正されずに後々までそのままの形で残っているとすれば、それが問題になるわけであります。修正されていないことが問題になるのです。
さて、私たちは次に感情的正当性の優位という傾向がどのような問題場面で見られるのかを見ていくことにします。その方が感情的正当性の優位ということの意味がより具体的に理解できると思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)