<#004-4>沈黙の効用
(「話してラクになる)
カウンセラーはクライアントの話を聴くものであるという通説を取り上げています。この通説はごく限られた一部分においてのみ正当であるとしか言えないものであります。その根拠となるものを前項では取り上げました。
欧米と日本とでは意味が異なるかもしれないのに、欧米のものをそのまま日本に輸入したところから誤解が生まれたのではないかと私は思うのであります。
カウンセラーもまたクライアントの話に参加していくことになるのです。それはカウンセラー側の言葉がけ、介入でもって参加していくことになるのです。このこととの関連で、もう一つの通説、「話すとラクになる」ということも取り上げようと思います。
話して気が楽になるとか、スッキリするとかいった体験はどの人も多かれ少なかれお持ちのことと思います。では、何がどうなってラクになるのか、あるいはどの時点でスッキリしているのか、そこで何が起きているのか、そういうことになるとよくわからないとお感じなられる方もいらっしゃるのではないかと思います。
いくつかの観点がそこにはあるのですが、本項では一つだけ取り上げたいと思います。それは「沈黙」であります。
(間合い)
私はもともとは喋るのが苦手であります。カウンセリングを受けた経験も数々あるのですがやはり話すというのは苦手であります。何かを話そうと思うと、それを一気に話してしまわないと落ち着けないのであります。それで、何か一つを話し終えると「ホッと」した気持ちになるのであります。
私が話すのが苦手だからそうなのだと、私は長いこと信じてきました。でも、どうやらそうでもないようであります。
ジェンドリンはGSRを用いて実験をしているのですが、話すという行為は心的緊張をもたらすものであるようです。その話が、強制されたものでなく、自由に好きなことを話していいという場面でも、話すという行為には心的緊張感が伴うようであります。
そして、その実験によると、話しの間合いに緊張緩和が訪れるということになるのであります。一つ話し終えると「ホッと」するといった私の体験とも一致するのであります。
私はこのことは非常に重要なことであると考えるようになりました。ちょうど音楽には音符と休符があるようなもので、休符がなければ音楽として成り立たないのであります。話すという行為が音を出す音符に該当し、話をしていない沈黙の状態が音を出さない休符に該当するわけであります。
話してラクになるという体験は、この緊張と緩和のサイクルから生まれるものである(もちろん、それだけで生まれるといわけではありませんが)と、私は考えるようになりました。一時間の話し合いの中で、この緊張と緩和をクライアントは繰り返し体験するのだと私は思うのです。
話してもラクにならないとか、話してスッキリした経験がないという人は、私の経験したところでは、けっこう強迫的に話す人が多いのではないかという印象を受けています。この人たちの話しは「音符」しかないのであります。話すことを求められているからと、細大漏らさずすべて話そうとされるところがあるのです。考えるまでもなく、これはかなり苦しい作業になることでしょう。
また、不安が過剰に強いという人も際限なく話し続けるといった傾向を見せることがあります。緊張と緩和の、緩和の部分が生まれないのであるので、話せば話すほど不安が高まるのかもしれません。
緩和は話を終えた「間合い」から生まれるものであり、この「間合い」を自ら埋めてしまっている人たちもおられるわけであります。
(間合いとは沈黙である)
では、その「間合い」とは何かということですが、これはひと言で言えば「沈黙」の場面であります。緊張と緩和のサイクルは、発話と沈黙のサイクルと言い換えてもよいのであります。
沈黙にもさまざまな種類の沈黙があります。ここではその一部だけを取り上げることになるでしょう。
通常、話が一区切りつくとか、一文言い切るとか、ひとまとまりの話が終わったとか、そのような場面で沈黙が訪れます。その沈黙は、ほんの息継ぎ程度のわずかな時間のものから、数十秒とか数分に及ぶものまであります。たとえわずかな時間でも緩和が生じると私は考えています。また、長すぎる沈黙には、緩和の意味合いが徐々に薄れていく可能性があるとも私は考えているのですが、それでも緩和をもたらしていることに変わりはないと思います。
長すぎる沈黙(といってもどれくらいの時間から長いと評価するのかは場面によって異なるのでありますが)において、時々見られるのは、クライアントがこの緩和に浸りきって(これが悪いとも思わないのですが)、再スタート(再緊張)に踏み出せなくなるといったことが生じているように思うのであります。しかし、今は沈黙が緊張緩和をもたらすという点にだけ焦点をあてることにします。
(カウンセラーが言葉を挟む番)
しかしながら、反論もあると思います。沈黙がより緊張感を高めることもあるのではないかという反論です。この反論は正しいと思います。
クライアントが沈黙する場面とは、カウンセラーが言葉を挟む場面でもあるのです。この時はクライアントが聞き役になっているわけでありますが、もっとも単純な解釈では、カウンセラーの言葉に耳を傾けていることで、クライアントは自分の緊張を意識しなくなっているということになります。仮に緩和まで至らなくても、自分の緊張を意識しなくなっているということは言えると思います。
この時、カウンセラー(つまり私ですが)の方でも、すぐには発言できないこともあります。私の場合、よくあると言った方がいいかもしれません。何も言えなくなるという場面もあるのです。おそらく、一般の人にはなかなか信じてもらえないことと思うのですが、「私はあなたの話を聴いて言葉を絶しました」とか、あるいは単純に「少し考えさせてほしい」とか、正直に「私には分からないのです」と答えたり、そうした言葉がけでもクライアントはかなり安心されるのであります。カウンセラーが同じように無言になると、確かにクライアント側にも緊張が高まるかもしれませんが、上記のような言葉でも緩和につながるのであります。
特に、自分が話し終えて、今度はカウンセラーからどんな言葉が飛び出してくるかと緊張して構えているような人ほど、緩和は劇的に訪れるのです。たいていの場合、「よかった」と安堵されるのであります。この経験をした人は、繰り返しこの安堵の体験をしていくようになるように私は思います。
沈黙は緊張緩和につながるのですが、そこにカウンセラーに発言が加わるのであります。従って、カウンセラーの言葉に安心感を覚えるといった体験をするクライアントもおられるのであります。私はそれでいいと考えています。
さて、本項では、カウンセリングにおいては話すことと沈黙することのサイクルがあり、それは心的緊張と緩和のサイクルに該当するものであることを述べました。この緩和の体験が、話してラクになったとか、話してスッキリしたといった体験につながるものであると私は考えています。次項にてこのテーマを引き継ぎたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)