<#004-2>私のカウンセリング観(2)~カウンセリング魅せられて 

 

(カウンセリングの魅力) 

 私もカウンセラーのはしくれとして長年カウンセリングに携わっております。カウンセリングとか心理学が好きであったのも確かでありますが、カウンセリングに魅力を感じてもいるのであります。その魅力が私をカウンセリングに惹きつけているようにも思う次第なのであります。 

 魅力を覚える部分は、私の年齢や経験とともに移り変わっているのであります。正直な話、座ってできる仕事であるということでさえ魅力だった時期もありました。今は、そんな部分よりも、他に魅力を感じているのでありますので、現在の私が魅せられているところを述べようと思います。 

 

(カウンセラーの数だけ理論がある) 

 この世界では、よく「カウンセラーの数だけカウンセリングの理論がある」などと言われたものでした。私はそれに賛同するのであります。 

 カウンセリングや心理療法にはさまざまな学派ができているのですが、その学派の創始者は必ずしも自分の学派を作ろうなどとは意図していなかったことが多いようであります。つまり、自分流の方法論を編み出した人が創始者となっているだけなのであります。 

 一つの学派に属する人たちが、さらに自分の方法論を編み出していって文派していくということもよく見られるのでありますが、そうなるのも当然であります。どの人も、どの後継者も、創始者と同じではないからであります。そうして同じ学派に属する臨床家でも違いが生まれていくのであります。 

 なぜそういうことになるのかと言えば、カウンセリングという活動に個々のカウンセラーの個性が持ち込まれるからであります。個々のカウンセラーの経験や思想、パーソナリティがその人のカウンセリングに持ち込まれていき、そうしてその人の理論が形成されることになるわけであります。 

 従って、カウンセラーは一人一人が独自であると私は考えており、そこに今は魅力を覚えているのであります。 

 

(カウンセラーのパーソナリティ) 

 私はまったく愚の骨頂だと思うのですが、一部の専門家はカウンセラーに適したパーソナリティといったものを打ち出しているのであります。こういう性格の方がカウンセラーには向いているとか、こういう性格はカウンセラーに適してないとか、そんなバカな研究をされているのであります。 

 私はそうではないと思います。例えば、短気な人はカウンセラーには不向きだと思われるかもしれません。でも、短気な人は短気な人なりのカウンセリングを編み出していくだろうと私は考えています。つまり、カウンセラーに適したパーソナリティがあるのではなく、そのパーソナリティに適したカウンセリングが生まれていくものであると思うわけであります。 

 実際、短気な人といいますか、人の話をじっくり聴かないという人でも、カウンセラーにはなれるのであります。その短気さとか話を聴かない傾向であるとか、それをその人の個性と捉えれば、その人は自分の個性に適合したカウンセリングをするようになるのでしょう。私はそう考えています。 

 従って、カウンセリングは創造されていくものであると私は考えています。先述のカウンセラーの適正云々という研究が愚の骨頂だと言うのは、その思想には創造性という観点が欠落しているように思われるからであります。また、カウンセリングをしているうちにその人のパーソナリティにも変化が生まれることもあるので、そうした変容の可能性も考慮されていないのであります。 

 極論を言えば、どんなパーソナリティの人であっても、その人が真剣にカウンセリングに関わっていくなら、その人らしいカウンセリングを編み出していくものであると私は思うのであります。そういうところにも私は魅力を覚えるのであります。 

  

(カウンセラーの独自性) 

 そのカウンセラーの経験や思想、パーソナリティが持ち込まれることによって、その人らしいカウンセリングが生まれていくものであるとすれば、どのカウンセラーもその人独自のカウンセリングをしていることになると私は思います。 

 とは言え、各々のカウンセラーが好き勝手なことをやっているという意味ではありません。カウンセリングという共通の土壌があっても、そこにその人らしさが持ち込まれるのであれば、それこそ一人一人のカウンセラーに違いが生まれることになるわけです。 

 そうして、さまざまなタイプのカウンセラーが生まれることになるのでありますが、こういうカウンセラーは正しく、こういうカウンセラーは良くないなどと判別することに意味はなく、むしろ、さまざまなタイプのカウンセラーが共存している方がこの分野も豊かになると私は考えています。 

 これは私の個人的感想でありますが、誰がやっても同じ結果になるといった仕事や、この職業に就く人はみんな同じような人であるといった職種とか、そういうものに私は魅力を感じないのであります。人によって結果が異なるとか、その職業に就く人にはさまざまなタイプがいるとか、そういう仕事に私は魅力を感じるのであります。 

 

(その人にしかできないこと) 

 さて、個々のカウンセラーがカウンセリングにその人の独自性を持ち込むのであれば、その人でなければできないこと、その人でなければ考えられないこと、などが生まれることと思います。私は必ずそれがあると信じています。 

 私にもそれがあると思いたいのですが、ひとまず私のことはさておくとしても、どのカウンセラーさんにも、その人でなければできないこと、その人だからできることなどがあるはずであります。その人でなければ考えつかないこと、生み出せないことなどもあるはずであります。そこにも魅力を覚えるのでありますが、各々のカウンセラーはそれを追及していくことができるというところに私は最大の魅力を覚えるのであります。 

 私もまた私なりのカウンセリングを追求している一人である、と自分ではそう思っている次第であります。 

 

 さて、私は私のカウンセリング論を展開していく予定でおりますが、こむつかしい話から始めると敬遠されそうなので、一般的な通念とか通説とかを切り口にしてみようと思います。次項から展開していきます。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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