<#004-11>問題の再定義へ
(線は問題の再定義につながる)
私たちの体験は連続的でありますが、それを話す時は点として、もしくは一連の点として話すので、話に飛躍が生じるのが当然なのであります。
また、私たちは一週間の出来事をほんの数分で話すのであります。経験することのすべてを話すことはないので、そこに飛躍が生じるものなのであります。
話に時間的飛躍が見られても、その話に筋が通っている限り私たちは飛躍を気にしないだけなのだと私は思います。
しかしながら、その話に前後のつながりが見えないというような場合、飛躍が問題になると私は考えています。前項の例で言えば、電車内で足を踏まれたことと惨めな気持ちになることとは直結しない感じがします。そこにはいくつものプロセスがあったはずであります。そこをもう少し丁寧にみていくことになるのです。
そのような飛躍はけっこう頻繁に見られるものです。例えば、ある人は自分を分析して「私は自分の思い通りにいかない状況でキレてしまうんです」と語ったとしましょう。この人は自分の思い通りに行かない状況を先に経験して、それからキレるという反応を起こしているということなのでありますが、私には飛躍が感じられるのであります。思い通りにいかない状況に接することと、彼がキレるということの間には多くのことが抜け落ちているように感じられるのであります。
こうした飛躍の部分は、現実の時間にしてほんの一瞬のことであることも多いのであります。前項の足を踏まれた例で言えば、足を踏まれて「痛い」という体験が欠落していたのでしたが、それは時間にして一瞬のことであります。瞬時に生じることなので、認識しきれていないとか、見落とされてしまうとかする場合もあるとは思います。
ただし、体験されたことであれば、一瞬のことであっても、丹念に振り返ると思い出すことも多いのであります。前項の足を踏まれた男性は、確かに足を踏まれた瞬間は痛いと感じた、などと思い出すのであります。
それを思い出してどうなるのかと言いますと、彼の問題は自分が無視され、惨めな体験をするということではなく、痛みを体験した時に「痛い」と言えないこと、などというように問題が再定義されていくことになります。そして、「痛い」と言えるためには「痛い」という知覚を把握できるようにならなければならないかもしれません。問題の再定義は取り組む事柄の方向性を変えていくのであります。
点しか話さないというのは、問題が再定義されることなく、また取り組む課題の方向性を変えることがないので、そういう話は「何もならなかった」と体験されるのももっともなことであるように私は思うのであります。
点と点とが線で結びつくと、その線が問題の再定義につながるのであります。常にそれにつながるとは限らないとしても、それでも、一つつながりが見えるだけでも私たちの中では変化が生まれるものであると私は考えています。
(体験レベルと観念レベル)
ところで、時間的継起における線は理解しやすいものであります。基本的に、この線は体験されているものであります。例えば、指摘されて、「そうそう、あいだにそいうことがあった」などと認識できることもけっこうあるのです。
もう一方の本質的・象徴的線はこうした体験の範囲外に属するものであります。ある時期のある場面のその人の行動と、現在のこの時のこの場面におけるその人の行動と、何が共通しているかというのは、ほとんど観念レベルの話になってきて、体験的に思い出すということはできないのであります。
ある人のこの傾向とあの傾向とは何でつながっているだろうかとか、この人が選んだ仕事と趣味と婚約者との間に何が共通するだろうかとか、こういった問は体験レベルでは答えられないものであります。加えて、この問には正答というものがないのであります。これだと思えるものがあったとしても、それは常に可能性としてあり得るとか、そう考えることもできるといった範囲のものでしかないのであります。それを作業仮設として、さらに考えてみることになるわけであります。
(探求要素と支持要素)
さて、点と線の話はまだまだ尽きないのでありますが、論じきれなかったところや言葉足らずだったところは別の機会に取り上げることにして、本項では最後にもう一点だけ述べておこうと思います。
カウンセリングを含めて心理療法には支持的な要素と探求的な要素とを認めることができます。本節で述べている点と線の話は探求的な要素に属するものでありました。
探求要素の活動だけになると、カウンセリングであれ心理療法であれ、クライアントには耐えがたいものになってしまうと私は考えています。探究活動だけになると、たいへんな知的労働になるというのも確かだと思います。ともかく、それを一時間続けたら双方とも疲労困憊することだろうと思います。
それだけでなく、飛躍はその人にとって苦しい何かと結びついていることも多いのであります。苦しい何かと結合しているので、見たくない何かがそこにあるので、そこを飛ばしてしまうのであります。つながりが見えないのでありあす。そして当人はそれを意識化できていないのであります。
従って、それを取り上げるということは、意識化できていないこと、あるいは意識化したくないと思うことを俎上に上げることになるわけなので、クライアントにとっては辛い体験となるかもしれないのであります。
実際のカウンセリングでは、あくまでも比喩でありますが、支持的並びにその他の要素が9,探求的要素は1くらいであります。探求的要素は、それが全く見られないというのも問題があるのですが、できれば少ない方がいいと私は考えています。
それに関して、あくまでも私が受けている印象でしかないものでありますが、年々、探求的活動に耐えられるクライアントが少なくなっているように思うのであります。
探求的活動に耐えられないというのは、それが苦しいというのもあるでしょう。また、手っ取り早く答えを教えてほしいなどと頼まれることが私にはありまして、彼らからするとこういう作業は煩雑な感じがするというのもあるでしょう。自分の内面に目を向けることが苦手だという人も多くなっているような気がしています。
おそらくこれも時代の流れなのかもしれません。近頃の若者は(これを言い出したら古い人たちの仲間入りだ)、何かあるとすぐに検索するようです。自分の中から探すのではなく、外側を探すのであります。いずれ、カウンセリングも現代人に合わせた形のものが主流になっていくことでしょう。私のカウンセリングは正直に言って時代遅れのものである、と自分でも自覚している次第であります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)