<#002-3>集客を狙うことの不毛さ
(集客を狙うことの不毛さ)
私のHPはすでに私を知っている人のために書いているものであります。クライアントのために書いているのであって、これからクライアントになる人のために書くのではないのであります。
そうは言っても、これからクライアントなる可能性のある人を疎外しているわけではありません。彼らがクライアントになってから、彼らはこのHPを以前とは違ったふうに読んでくれるだろうと思うので、その時のためにも書いて残しておきたいという気持ちもあります。
これからクライアントになる可能性のある人に向けて働きかけることを「集客」と呼んでおきましょう。しばしばIT屋はそれを打ち出してくるのです。私のHPを見れば集客を一番に考えていないことは一目瞭然であるように思うのですが、いかがなものだろうか。
ところで「集客」ということですが、分野によってはHPが活躍するでしょう。例えば、私がラーメンを食べたいと思う。美味しいラーメン屋を知りたいと思う。私はいろいろ検索してみるでしょう、店側はウチはこういうラーメンを提供してますよといったことをHP上にアップしていたりするでしょう。それらをいくつも見比べて、最終的に私はこのお店のこのラーメンを食べに行こうと決め、現実にそのお店まで足を運んだとしましょう。このお店は「集客」に一人成功したことになります。
カウンセリングではこういう「集客」はまず見込めないというのが私の考えであります。上記の場合、私の求めている情報と店が提供する情報とが一致しているのでありますが、カウンセリングに関してはそれが一致することなどほとんどあり得ないことであると私は考えています。
なぜ一致することがあり得ないのかと言いますと、上記では私は私の求めていることが私自身に分かっているという前提があります。ラーメンを食べたいという私のニーズが私自身に分かっているわけであります。この前提に基づいて後の行動が生まれているわけであります。カウンセリングに関してはその前提の部分が非常に覚束ないのであります。
つまり、クライアントは自分が本当に欲しているものを自分でも分かっていないという事情があるためなのです。だからクライアントになるのでありますが、もし、自分が本当に求めているものが分かっているとすれば、その人はクライアントにはならないでしょう。そこまで自己理解が深いのであれば、クライアントにならずに済むでしょう。
しかしながら、心に関しては、私たちの大部分は自分の欲求に気づくことがないのであります。こんなふうに言い切ってしまうと語弊があるかもしれませんが、私はそのように考えております。求めているものがラーメンなどのような外的な何か、客観的。物質的な何かではないからであります。
従って、このHPで何をどのように提供しようとも、それが直接「集客」につながるはずはないと私は思うのであります。情報を閲覧する段階の人からクライアントになるまでにはさらにいくつか越えなければならない壁があり、それをHPだけでやっていくのは限界があると私は考えています。「集客」のためにHPでできることは、カウンセリングに関しては、ほんのわずかしかないと思います。そのわずかのために莫大な費用と時間をかけるとすれば、かなり不毛な作業にならざるを得ないと私は考えている次第であります。
(大半はフィーリングで決める)
さて、それでもクライアントさんは来てくれるのであります。どうして私を選んだのかを彼らに尋ねることもありますが、あまり明確な回答が得られないことも多いのであります。
なんとなくここが良さそうに思ったからとか、たくさん書いてあったからとか、限りなく「フィーリング」に近い感覚で受けに来る人もけっこう多いのであります。フィーリングが悪いわけではないのですが、それだけで決めていいのだろうかという思いが私の方に生まれてしまうのであります。
もう少し違った回答として、例えば、家から近かったからとか、他と比べて料金が安かったからとか、そういう理由を挙げる人も少なからずおられるのです。これもほとんどフィーリングに近い気がするのでありますが、いかがなものでしょうか。
こういった回答を字義通り受け取っていいものであるかどうかはさておくとして、これらが何を表しているかということなのですが、結局、自分のカウンセラーを選ぶことが困難であったということではないでしょうか。自分で選べないということではないでしょうか。だからフィーリングだけで決めてしまうということが起きているのではないでしょうか。
なぜフィーリングに頼るのかということですが、その理由の一つとして、彼ら自身、自分がカウンセリングで何を求めているのか、自分のニーズに無自覚なためではないかと私は思う次第であります。選択のための基準や手がかり、自分のニーズと提供されるものとの適合性を判断する基準や手がかり、そういう確固とした基準が欠けているからではないでしょうか。私はそのようにも思うのであります。
もし、これからクライアントになる人がそういう人たちであるとすれば、私としては何一つとして提供できるものがないのであります。むしろ何も情報を提供しない方が「集客」になるかもしれません。自由にフィーリングを漂わせてもらった方が得策であるかもしれません。
ただ、それをすると私がこのHPで書くことの意義と対立してしまうのであります。クライアントのためには書いた方がよくて、これからクライアントになる人のためには書かない方がいいということになってしまうからであります。そして、私は躊躇なく前者を選びます。
(病んでいる人は探し続ける)
あと、余談でありますが、IT屋は「カウンセラーを探している人が多い」などと言うのであります。どこからそんな情報を得たのか私は知りません。おそらく検索キーワードなどからそう判断したのでしょう。
カウンセラーを検索する人のすべてがカウンセラーを探しているわけではありません。これは言うまでもないことであります。しかし、カウンセラーを探している人がすべてカウンセラーを探しているとも言えないのであります。カウンセラーと出会わないためにカウンセラーを探しているという人もおられるはずであります。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが。
分量の関係であまり詳述しないでおきますが、延々と探し続けるというのは一つの「症状」であると私は考えています。病んでいる人ほど逡巡し続け、決断することも実行することも延期され続ける傾向があるのです。不安が強いというのもあるでしょうし、あまりに強い不安は「現実性」を帯びてしまうという事情も手伝って、最初の一歩がますます踏み出せなくなるのではないかと思います。
IT屋は、彼らの症状を肩代わりするような提案か、もしくは、彼らの最初の一歩を肩代わりしてあげるような提案をされるわけであります。私の見解では、いずれも「余計なおせっかい」であり、「反治療的」であります。そういう提案は、何よりも、彼らが最初の一歩を踏み出すことのできない人間であるとみなしていることになるのではないかと思う次第であります。だから私はそういうことをしないのであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)