臨床日誌~不愉快な感情の解消
人はさまざまな状況を生きており、さまざまな人との関係の中にある。
それぞれの個人は各々の場面、各々の相手との場面において、さまざまな感情体験をする。
感情体験には、好ましいものもあるが、そうでないものもある。つまり、不愉快な感情体験をしてしまうこともある。
不愉快な感情体験とは、不安であったり、恐怖感や緊張感であったり、悲しみや怒りなどである場合もある。こうした不愉快な感情は、それを体験している当人にとっては苦しいものである。苦しいので人はそのような不愉快な感情をできるだけ速やかに解消したいと願う。
ここでは怒りとか、憤り、立腹、鬱憤といった感情体験を取り上げよう。その他の感情体験においても同じことが言えると僕は思うので、一種類だけを取り上げておこう。
ちなみに、「キレる」という現象は怒りとは無関係であると僕は考えている。「キレる」とは感情体験を伴わないものである。つまり、反射レベルの現象であると僕は捉えていて、感情は後で付随してくるものであり、決して怒りの感情体験と同一視できるものではないと僕は把握している。
また、このことも押さえておこう。穏やかな人、朗らかな人、およそ怒りとは無縁のように見える人であっても、怒らないわけではないということ。穏やかに見える人の内面では怒りの炎が渦巻いているなんてこともあるものだ。これは精神分析で「反動形成」として概念化されている現象である。
加えて、悟りを開いている人が決して怒ることがないとも言えないのである。悟りの境地に達したような人が時に激しい怒りに駆られているように見える言動をする場合もある。僕が思うに、悟りに達したような人ほど自分の感情を恐れないだろうから、怒りはそのまま怒りとして表出されるのではないかとさえ思っている。ただ、その怒りは理に適っており、悟りと一体であると僕は捉えている。
怒りのような不愉快な感情をどうしたらいいのか。これを問うてくるクライアントも多い。あまり方法論的に考えてはいけない。このことを大前提として押さえておこう。その上で、不愉快な感情の処理を人はさまざまな形で行っているとだけ言っておこう。特定の方法なんてなく、人はそれぞれ自分流の方法を持っているものだ、各自が身に着けた対処法をしているものだ、僕はそう思うのである。
そう言ってしまえば、この話はこれで終わりなのだ。怒りをどう処理すればいいかと問う人に対して、それを見出し、自分のものにしていくことが質問者に課せられているということになる。だから「君自身で見出したまえ」が正答になる。以上で尽きることになる。
でも、それだけではあまりにも素っ気ないので、僕なりに理想と思うところのものを述べておこう。
僕が理想だと思うのは次のことである。ちなみに、「理想」という言葉を僕が使うのは、それを僕自身が実現できていないことを意味しているわけである。
僕の理想は、不愉快な感情体験に囚われてしまった時には、自分が生き甲斐としているもの、人生の目標としているところのものに立ち返ることである。今、僕を支配しているこの不愉快な感情よりも、はるかに高次のものに、より高い理想のものに立ち返ることである。それを通して本来的な自分に立ち返ることである。
理想とか目標といったものは、いわば今だ自分が達成していないところのもの、自分が到達していないところのものの自分ということである。従って、それは自己を超越した自己と言えるだろうか。不愉快な感情に囚われている時こそ、自己を超越したところにある大いなる自己との結合が求められると僕は考えているわけだ。
それに比べたら、今自分が囚われている不愉快な感情並びにその感情を惹起した出来事の微細なること甚だしいと体験せざるを得なくなる。それでいいと僕は思っている。
ちなみに、こんなこと大したことないなどと高をくくるのは正しくない。大いなる自己との結合によってそれが微小になっていくわけなので、その過程を省略して高をくくっているのはただの思い上がりというものだ。本当はそれに囚われ続けていることを示しているに過ぎないと僕は考える。
不愉快な感情に囚われ、そこから抜け出せないという人は、そういう理想とか目標とかを初めから有していないという人もある。不愉快な感情よりも、そっちの方が問題が大であると僕は思う。というのは、人は生きていると、もう少し自分がこうであったらとか、将来はこんな人間になりたいとか、そんなことを思う瞬間が生まれるはずである。
だから、そのような人は、そういう瞬間が皆無なのかもしれない(自己覚知が低い)し、そういうことを思い描くこともできないのかもしれない(想像力が欠落している)し、理想や野心を持ちえないのかもしれない(健全な自己愛が育っていない)し、自己を創生するという感覚に乏しいのかもしれない(創造性が低い)。その他、いろいろ要因として考えられることがあるだろう。
そして、そういう人は方法に拘る。アンガーマネージメントとかに凝りだす。方法に凝るということは、それ自体、現在の自分に囚われ、かかりきりになっているということではないだろうか。超越した自己との関わりを失っていることの証ではないだろうか。
どの人間も怒りを体験することはある。怒りなんて人間の感情のかなり基本的なものだと思う。その基本的なものを「方法」で操作するというのは、それが過剰になればという意味だけれど、それは自己疎外に他ならない。自分で自分を機械のように操作しているということになるからである。その人は自分の人間としての在り方を棄損していることにならないだろうか。
どうせ怒るなら自分の理想のために怒る方がいい。そのパワーは理想のために捧げる方がよっぽどいい。他人を攻撃するためにその力を行使してはいけないのだ。僕は今、激しい憤りを覚えながらこの文章を書いている。僕はこの感情を決して「悪」とはみなしていないし、そのようなものとしては体験していないのである。僕は僕が理想としているところの僕と関わっているのだ。憤りの元となった体験なんて、もはやどうでもよくなっている。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)